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人に会わなくては

なんでもオンラインで、あるいはスマホから予約を入れたり注文を入れたり解決したり作業できたりする時代だ。だが、ハッキリとはコトバに言い表すことはできないのだが、どうしても人に直接会って話さないと補給できない何かがあるということ、それを言いたくなる。

実際、感染症蔓延化ではひきこもって家でさまざまなメディアを楽しむこともできた。電話での雑談やビデオ会議、テキストチャットにも慣れ親しむことができた。自分でもそれで十分なのではないかと思っていたこともある。なぜならば、わざわざ移動の手間暇をかけずに済むからだ。

相手にとっても自分自身にとってもお手軽に、負担が少なくいつでも通信ができる。多人数でも日程調整がしやすい。それは非常に効率的だ。効率、効率、そう効率を追求する仕事ならそれでいいのだろう……と思っていたら、感染症が小休止を迎えた途端、当社の人事部は「コミュニケーションのために週に一定日数はオフィスに出社してください」と言ってきた。不思議なものだ。まるで、音声通話やテキストチャットが〝コミュニケーション〟ではないかのような文言ですらある。

ただ、その背景にあるイイタイコトは何となくわかる気がする。それは単に上役が部下を四六時中視界に収めて監視していられないから不安になるというだけの話ではおそらくないのだ(まあ、そういう会社や上司は少なくないのかもしれないが)。感染症が猖獗(しょうけつ)を極めたときは「オフィス不要論」なども囁かれたが、或る経営者は「リモートワークは既に出社し合ってコミュケーションの貯金があるからこそできることに過ぎない」と述べたし、別の経営者は「ITの中心地であるシリコンバレーそのものが物理的・地理的に同じ場所に集まることで人間はいい仕事ができることを証明している」と述べた。

これは不思議なことだ。或る意味、メディアは所詮メディア、つまり媒介に過ぎないのであって、実際に対面であってそれなりの時間を共にして語り合ったり、一緒に食事やスポーツ、ゲームをしたりすることで相手の肉体や人間としての動物としてのあり方も含めた何か(オーラ?)を感じ取っているとしか思えない。それが電話であろうと、ビデオ通話であろうと、メディアを通すとガリガリッとこそげ落ちるのである。あるいは、「近く」にいるとか、本当に「同時に・同時代に」生きている同胞なんだという実感が得られないということなのかもしれない。

私はオフラインのサークルをずっと主宰しているが、やはりオフラインでやらなければ得られない何かがあるとそれは信じているからであって、それが何だとハッキリ名指すことはできないのだが、オンラインだけの関係というのはそれに比べれば申し訳ないが鴻毛(こうもう)の如く軽いものだと思わずにはいられないのである。

(1,155字、2024.02.15)

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