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一元性への希求 imaginary Oneness

物心ついてからというもの、この世界を一人称の視点からしか見たことがない。それに、世界の中に「視点」を発見したことがない。なぜならば、「この世界を一人称の視点からしか見たことがない」というときの視点とは、決して「この世界」の中に繰り込まれないような絶対的視点だからである。言い換えればそのような視点は客観的に規定できないし、言葉でも伝えることができない。

また、それは「無」でもある。なぜならば、それはどこにも物体として存在しないからだ。とはいえ、例えばそれは「ここにペンギンがいない」のような不在 vacant の意味での無ではもちろんない。なぜならばペンギンはここにはいなくても地球上のどこかに現に存在するが、絶対的視点は地球上のどこにも宇宙のどこにも想像上のいかなる世界にも存在しないからである。

そうはいっても、それはたまたま一つの身体と対応していて、そこからブレたことも無いから、この身体が発話する「私」とぴったり同期している。だから、そのような視点が「無」なのだなどといっても、現にそれを発話する身体が存在する以上、説得力はない。なぜならば、身体が無であるとはそれが死亡して分解された状態を指すからであり、そして現に死亡してもいなければ分解されてもいないからである。

絶対的視点が無であり、そこに客観的規定か何も見いだせない空虚なコトバに過ぎないのに対して、世界の方は豊かな規定(特徴づけ)を持っている。例えば天には星が輝き、地には花が咲き、人には愛情のある振る舞いが見受けられる。それに、この世界は自律性を持って法則的に動いていて、それは私の一身体に与えられた筋力や権力ではどうにもならないことばかりだ。

ところで、昔の人には自然が精密機械のように精巧なるをみてそれをデザインした職人=ゴッドがいるに違いないと類推した人がいるそうだ。それと同じように、冒頭で出した「絶対的視点」も、誰もが持っている通常の視点を抽象化(絶対化)したものに過ぎないのかもしれない。私も物心ついたときからずっと同じ視点しか見たことがない……と思い込んでいるだけなのかもしれない。言い換えれば、他人の視点も持てたことは実はある(例えば眠ってみる夢で……)のだが、それは意図的に無視してこのひとつの身体にはひとつの視点しかないはずだから絶対的視点がずっと継続しているに違いないと勘違いしているのかもしれない。

仮に通常の諸視点から類推して「絶対的視点」あるいは視点のイデアのようなものを考えているとすれば、自分の中に余計な溝(みぞ)をつくっていることになる。というのも、私はこの絶対的視点とそれに付随する身体にすこぶるこだわって、そのために世界から遊離し、世界の中に価値あるものを見いだせず、孤独に陥ってしまっているからだ。

世界の中に豊かな規定があるのは確かなのだが、そのなかで私にとって特別なものを見つけようとすれば、当然それは私が特別だとお墨付きを与えなければなるまい。ところが、私は私自身にはそのようなお墨付きを与えることはできない。少なくともタダでは無理だ。私に対する承認は、私が自分自身の技量や影響力や貢献を拡大することによって世界の側から与えられる。そして、私の側でもお墨付きを与えられることにお墨付きを与える(つまり、承認を受け入れる)ことが必要である。

このような相互承認が必要なのは、私と世界とが分かれてしまっているからで、どちらか一方だけだったり両者が完全に分離して外在的になってしまえば承認など必要ない。また、承認に対して私が興味をなくし無関心になってしまえばやはり課題にならないだろう。

私は私自身が特別になりたいという思いもあるし、また世界の中に私が特別だと見抜き認め得る何かを見いだしたい。しかし、私は世界とひとつになることができない。それどころか、世界と握手すらできずにいる。

(1,589字、2023.11.10)





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