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勲章をつけると

例えば、高位の軍人が正装した写真をみると、胸に多数の勲章もしくは略綬(勲章をプレート化してコンパクトにしたもの)を胸に着用していることが多い。これはつまり、その人物が自分の軍人としてのキャリア、職歴書を胸に貼り付けているのである。だから、一枚の肖像写真でその軍人の風貌だけでなく彼の経験や功績の要約まで知ることができる。

将官は左胸に略綬(りゃくじゅ)を着用する

類似したものに、競技スポーツの選手が優勝して獲得できるメダルや、ノーベル賞のメダル、その他何らかの名誉を表すリボンなどがあるが、いずれもそれがそれであると識別できる限りで自分の見た目に自分の過去の功績や経験を組み込むことができる。これは便利なことだ。なぜならば、自分が残した結果や功績の証拠そのものを色カタチで象徴したモノを携帯着用でき、かつ客観的に証明できるからだ。

言い換えれば、メダルは一種のインフラ的な記号である。というのも、このようなメダルをさらに体系化したものが軍隊の階級章で、階級章が軍隊のなかで一種の言語として通用していることからも、メダルがその原始的な形態であることがわかるからだ。

その人物が誰なのか? 敵なのか味方なのか? 味方だとしたらどういった賞罰を持つ人間なのかを見た目で識別できると、識別する側にとってもされる側にとっても便利である。なぜならば、人間は動物であるから、さまざまな環境を渡り歩くのだが、そのなかで自分が誰なのか、誰だったのかを憶えておくことが必要になるし、また自分が誰であるか(アイデンティティ)を他の人に対してもメダルを見せて認知され承認されることが必要または便利だからである。

このようなメダルは、哲学風に言えば、当人の経験や功績のような出来事の集合を、物質的なあるいは可視的な形態に要約したものだと言える。言い換えれば、真なる命題の特定の集合を指示する物質がメダルなのである。メダルは出来事が複雑に絡み合った集合全体を名付けて単純化(隠蔽の一種)するが、それでも必要不可欠なものでもある。なぜならば、もしメダルが存在しないか、あるいは存在したとしても誰もそれを何のメダルか認識できなければ、そのような出来事の集合は毎回詳細なエピソードやデータを伴って語り継がれなければならなくなってしまうが、しかしそれではかえって出来事(例えば戦争や災害)の記憶やその渦中にいた人々の苦労や功績は風化してしまうからである。我々は至極単純な形態でしか自分たちの経歴や歴史を憶えておくことができない。

このようなメダルという〝疎外された権威〟にこだわって激しい競争を繰り広げるのはひょっとしたら本末転倒なのかもしれないが、それが本来持っているプラスの側面も認識しておかないと、何を言っても〝無冠の人〟が負け犬の遠吠えを言っているだけ、ということにもなりかねない。

(1,152字、2023.11.09)


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