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目的因と理想状態
まるで静かな晩秋の夜、暖炉の前で古い哲学書を開くような気分で、私はこれを考えていた。物事の「原因」というものだ。すべてはその「目的」を基に動いているのではないか? アリストテレスの思考の中に隠れている深い洞察、その一端を掴むように、私はひとり言葉を紡ぎ出していた。
「例えば、満腹という目標がある。だからこそ、人は焼きそばを食べるのだろう。焼きそば――あのソースの香ばしい匂いが鼻腔をくすぐる――それを食べる理由は、ひとえに満腹になるためだ。」
私は心の中でそうつぶやきながら、焼きそばの皿を目の前に思い浮かべていた。いや、それだけではない。散歩についても同じだ。健康という目標のために、人は歩を進める。それが原因となり行動が生まれるのだ、と。
だが、ふと疑問が湧く。目的因にも種類があるのではないか? 達成を目指すものと、安定や維持を求めるもの――二種類の目的因が見え隠れするような気がしてならないのだ。
「満腹は簡単だ、一回の食事で達成できる。だが健康はどうだろう? それは長い時間をかけ、つねに目指し続ける目標だ。しかも完全な『健康』などというものは、幻想のように、到達し得ない遠い星のようではないか?」
ここで私は北極星を思い浮かべた。北極星、それは到達不可能な星でありながら、船乗りにとっては道を示す絶対的な存在だ。北極星を頼りにして進むが、それに触れることも、近づくこともない。ただ、その輝きが方向性を指し示し続けるだけだ。
「ならば」と私は自分自身に語りかける。「我々も自らの北極星をつくり出すことができるのではないか? たとえば、死後の裁きという神話を信じることで、誰も見ていないところでも正しい行いをしようとする動機が生まれるかもしれない。」
これはまるで、プラトンが語った「高貴なウソ」のようだ。信じることによって現実世界が少しだけ良くなるのなら、それは嘘であっても価値がある。北極星のように、触れることができなくとも、それが指し示す方向性は確かに存在し、我々を未知の領域へ導いてくれるかもしれないのだ。
思考をひとしきり巡らせたあと、私はふと笑みを漏らした。焼きそばや散歩といった具体的な例を挙げながらも、結局は哲学的な空論に浸っている自分を滑稽だと感じたからだ。しかし、この滑稽さこそが私にとっての楽しみなのかもしれない。