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自己憐憫 self-pity

この記事も、自己憐憫 self-pity の言葉が並ぶだけになるかもしれない。なぜならば、今鼻水によって気分がわるく、また長距離移動中で疲労があるからだ。

ところで、最近見かけた記事によると、人間にとって「現在」とは15秒程度だそうである。また、昔聞いた話では金魚の記憶力は30秒程度だそうだ。言い換えれば、30秒より前のことは、良いことも悪いことも何も覚えていないということである。私の事実誤認や実証研究の進捗によって何秒であるかが更新されることはあっても、「現在」そのものの時間的幅が無いとは考えにくい。なぜならば、例えば音楽の旋律の認識などを想起してもわかるように、認識は現前し、かつ時間幅を持つ出来事をガバッと直裁的に経験しているのであって、少なくとも自覚可能なレベルで静止画を知的につなぎなおしているわけではないからである。

人間にはこのような「現在」「今」だけではなく、過去や未来もある。言い換えれば、記憶の想起や未来の出来事の予想、想像をおこなう力がある。この想起力と想像力のおかげで、私も我々もひどく居心地のわるい思いをする。なぜならば、我々が想起または想像する過去や未来は今起きていないという意味で実在しないにもかかわらず、我々はそれによって情緒を揺さぶられるからである。ヒト以外の動物でも類似のことはあるだろうが、ヒトほど発達しているとは考えにくい。

このようなヒトの特徴のために、ヒトは目の前に何のピンチが無いときでもピンチに備え得るのであるが、しかし、過去にたった一回しか起こらなかったことや必ず起きるどころかまず実現不能な未来を、まさに今考慮するのは、動物っぽい視点からみると、謎でもあり、また滑稽なものでもあろう。

さて、私が自己憐憫に陥るときは、別に悲しいきっかけがあるときとは限らない。なぜならば、私はいつでも自己の中に過去と未来を引きずっていて、そこから自分を憐れむことができるからだ。

私が自己憐憫からしんどそうにしているときに、それは何か悲しいことがあったからだと推論する人がいるが、そうすると私はイライラしてしまう。なぜならば、ひとつは私自身の無用な高慢さがあるだろうし、また同じことかもしれないが、おそろくは自閉的な特性から注意を他者に同調させられないからということもあるだろう。他人が私を歴史のある存在としてみてくれていないこと、最近の出来事に反応するだけの浅い存在だとみなされることに対して、私は寛容になれないのであるが、一方で相手からすれば他の人に対してはそうするのが最も親切で心のこもった自然な対応なのであるから、私がいったいぜんたい何にカンシャクを起こしているかわからない。こういう人のことを気難しい人というのだろう。

とはいえ、私の自己、すなわち私の歴史もそれなりの長さになり、こうして他者との違いを分析できるだけの材料や余裕を持てるようになってきた。それはいいことだ。もし私がもっと自分を適切に要約できれば私がイライラするとき、喜んだとき、それを他者にうまく解釈してもらえる機会を増やせるだろう。

(1,270字、2023.11.03)


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