自分の言葉が消える
これはドイツの昔の哲学者がどこかで使っていた比喩であるが、あらゆることを〝太陽のように〟明晰に説明しきれたらいいな、というあこがれがある。
一方で、今書いているように自分自身では自由に書いているつもり、つまり特にかしこまらずに自分自身の言葉で書いているうちは、そのような誰から見てもわかりやすく、また誰が読んでもおよそ言語を解するものであるならばワカラセを食らわざるを得ないというほど明晰に書くことはできない。なぜならば、ただ気ままに連ねられた言葉はなぜその順番なのか、どんな具体例が念頭にあるのか、どこに行きたいのか、曖昧であり明示されていないからである。
この気ままな言葉を分解して、一語ずつ辞書を引いてみたり、他の候補と比較したり、出典や関連する文書と紐づけていき、具体例を複数備え付け、理由や証拠を深堀りして論証を整備することも、もし上記のような誰が読んでも無色透明、誤解の余地もなければ読みにくさも無いという達意の文章のためには必要であろう。また、私が横着して、知識や言い回し、レトリックや論証の型の受け売りをやって自分をさも賢(さか)しらにみせていることを明示するか、もしくはそのような虚飾を除去してしまうことは、見る人が見れば知的な誠実さを感じることになるだろう。つまり、私は本当はジブンノコトバなどで書いているわけではなく、何か過去の記憶やどこかで聴いたフレーズの蓄積に書かされているだけなのだと自分で自分自身にも思い知らせるような作業にそれはなる。
他方、そのように分解され、再度組み立て直された文章は、やっぱり引用や註釈だらけで、自分で作り込んだものではあっても自分のものはどこにも無いように感じる。どの部品も、どこかで買ってきたもの、気の利いた誰かがここぞという場面でキメゼリフに使ったものばかりなのだ。全体の筋書きだって、誰かがこういう組み立てがわかりやすいと言っていたのをパクっているだけなのだ。
組織が使う文書──教科書やマニュアルのような再利用可能でパブリックな文書とは元来そういうものであり、法律の条文と同じように筆者の署名は余計なシロモノなのかもしれない(実際には、文学的で個性的な法令の文章やプログラムコードというのもあるようだが)。
それにしても、最初の「自分の言葉」はどこに行ってしまったのだろうか? そんなものは客観的な記述には元から必要もなかったのだろうか? なぜそれがよくみれば借り物なのに「自分の言葉」のように錯覚していたのだろうか? 本当は自分の言葉で文章を書き上げたい。
しかし、自分の言葉はそれで意気揚々とそれで書き始めるには心地よいシロモノだが、細部を詰め始めると次第に邪魔になり、畢竟(ひっきょう)文章が間違ってもいなければ情緒的でもないが、他人のモノになってしまう。最後を自分の言葉で締めくくるにはどうしたらいいのか。まるで自信がなく途方に暮れる自分をみつける。
(1,205字、2023.09.27)