すべてのことが同時に起こる
人生の「本番」というのは、いつ来るのだろうか? そんなことを考えているうちに、大人になってしまった。もう、「本番」は過ぎてしまったのだろうか? いや、そんなことはないはずで、人生はいつだって今が「本番」で、本番以外のときなんてものは存在しないはずなのだ。なぜならば、人生という時間の流れの中で、練習のための時間と本番を演じる時間のような区別は自然には備わっていないからだ。意図的に、人為的に、何かイベントを想定してそうすることはあったとしても、人生そのものに本番というのが自然に備わっているということはないからである。
そういう意味で、例えば人為的におこなう「芝居」のような行事のアナロジーとしての「本番」は人生には無いとしても、人生で特別な瞬間というのは確かにあって、それは常に「今」である。これは形式的な捉え方のひとつかもしれない。通常は特別な瞬間というのは、例えば死活を分ける試験や試練、冠婚葬祭のような人生の内容によって区別されるからである。それらは値打ちのある、特別な時間をつくるだろう。しかしそれではそれ以外の時間は何の意味があるのだろうか。そのような特別な時間に対する二次的な、準備的な予備的な意味しか持たないのだろうか?
私はそうは思いたくない。どの瞬間にも値打ちがあると思いたいし、どの「今」にも値打ちがあると思いたいのである。結果だけではなく、そこへの経路をたどる瞬間や経路を模索する段階にも値打ちがあると思いたいのである。なぜなのかは、自分でもハッキリしないというのが正直なところだ。どの「今」においても自分は自信と確信を持っているべきところにおり、なすべきことをなしていたいからなのかもしれない。「ムダ」や「無意味」でいたくないと同時にいきいきとしていたかったり意欲的であったりしていたいからなのかもしれない。
動いていても、休んでいても、自分は意味のあることをしているのだと思いたいし、自分や自分の行為を否定したくない。否定するならするで、それも前進するためにあらかじめ見込まれた範囲でおこないたいという信念を持っている。「今」をないがしろにし、何をしていてもいいのだ、何をしたいわけでもない、どうでもいいのだと考えるときだって、それはある。しかし、それは悲しく空しいときだ。場合によっては後悔する。
上記のような信念あるいは信仰があるので、私はすべてが「今」に詰め込まれていたらいいなと夢想する。スピリチュアルと言われれば、そうかもしれない。結局、「今」しか私に動かせるものはないのだから、「今」のあり方に過去のすべてが要約されていて、「今」のあり方から将来のすべてが紡がれるといったような、そういう生き方をしたい。
(1,118字、2023.09.26)