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会話の前に
「ねえ、健二。そろそろ話そうって言ってた件、いいかしら?」 明子がやや控えめに声をかけると、健二は頷きながらコーヒーカップを手に取った。 「おう、もちろんだよ。で、何から話す?」
「まずは…私たちの会話のやり方、というか、ルールとか前提の確認をしたいの。私、どうやら自分でもわかるくらいひねくれてるというか、話すときにちょっと斜めに構えがちみたいで。あなたと上手くかみ合わないときがあるかなって思うの」
「ふーん、なるほどな。でもそんなに気にすることか? 俺は明子がいろいろ考えて発言してくれるほうが好きだけど」
明子は複雑そうな表情を浮かべつつも、少し安堵の色を浮かべた。 「ありがとう。でも、たとえばいざ会話を始めるときに、前提を共有していなかったりすると、いきなり重たい話題に突入して、お互い疲弊するばかりになったりするじゃない?」
「まあそうだな。要は、あらかじめ軽く段取りしておいたほうが、余計なトラブルを回避できるんだろ?」
「そういうこと。たとえば会話のタイプっていろいろあるでしょ? 雑談とか交渉とか、あと傾聴が必要な自己紹介とか宣伝めいたスピーチとか。そのどのパターンなのかをお互い把握しておけば、随分スムーズになるはずなの」
「なるほど。俺も、いまはなんとなく雑談寄りのつもりで聞いてたけど、明子が本気で交渉モードなら、もっと資料とか準備しておくのが礼儀だったかもしれないな」
「そうそう。お互いの目的に合わないと、片方はリラックスして話したいのに、もう片方は本気の交渉モードでガチガチに詰めようとしてきたりして、ずれるでしょ? そうすると怒りや誤解が生まれやすいの」
「まあ確かに、一方的に押し付けられると気が滅入るわな」
そんな風に二人が落ち着いて話し合いを続けようとしていた矢先、キィと玄関の扉が開く音がして、ずかずかと足音が近づいてきた。
「…おいおい、何をのんきにやってんだよ、あんたら。そんなちんたらした話し合いで物事が進むと思ってるのか?」
姿を現したのは深草という名の中年男だった。髪はぼさぼさ、服はよれよれ、どこか怒気をはらんだ目つきで二人を睨みつける。その佇まいにはただならぬ雰囲気がある。
「…え? 深草さん、どうしたんですか?」 明子が戸惑いながら尋ねると、彼は鼻を鳴らしてテーブルに拳を置いた。 「どうしたもこうしたもねえよ。会話だの前提確認だの、小難しい理屈こねやがって。お前ら、そもそも相手の本音を読む気あんのか? 人の話っつーのは、言葉尻じゃなくて腹の中の毒やら泥やらをどう扱うかが勝負だろうが」
健二がなだめるように言う。 「深草さん、まあ落ち着いてくださいよ。僕らはあらかじめすれ違いを減らそうとしてるだけで――」
「すれ違い? てめえは本気でそう思ってるわけ? 俺から言わせりゃ、あんたらが言ってる『前提確認』だとか『会話タイプの共有』だとか、そりゃあ耳障りはいいけどな、結局は自分が傷つきたくないから下準備してるだけだろ? もっと素直に腹割れよ」
深草は一気にまくし立てたかと思うと、頭をかきむしって続けた。 「会話が疲れるってのは、要は心が通じ合ってねえからだ。距離感がああだこうだなんてのも、結局は自分の身を守るためのガードだろ。『ノーディールだっていい』? お互いが疲れないための保険? そんなもん、うわべだけの優しさだ。気にくわないならとっとと逃げるって話だろうが」
「あ、あの…」と明子が口を挟むが、深草は制止も聞かずさらに声を荒らげる。
「俺だって他人との会話は怖いし、正直言えば下手くそだ。なにしろ、昔っからどうにも噛み合わなくてよ。けどな、それでもなんとかしようって気持ちがあったら、こんな確認事項なんかより、まずはぶつかってみりゃいい。自分をさらけ出す勇気がねえなら、そのやり方もあるさ。だがな、あんまり上品ぶった綺麗事なら、耳障りになってくるんだよ!」
健二は深草の様子を見かねて、声を低くして呼びかける。
「わかりました。確かにあなたの言うように、先に『話す心構え』ばかり並べるのは余計な気負いかもしれない。けれど、俺たちだって勝手に喧嘩してわかり合えずに疲弊するのは本意じゃないんです。こうでもしないと、すぐにすれ違うから」
「すれ違いが怖い? ああ、なるほど。偉そうに言ってる俺だって、すれ違いばかりでろくに信頼関係を築けた試しがねえ。いっつも誰かとトラブル抱えて、頭に血が上って手が出ちまうことだってある」
深草はそこで苦々しい笑いを漏らしながら、自分の拳を睨みつけた。
「…言葉なんて当てにならねえな。だけど仕方なく話してる。それでも、細かいルール決めときゃ回避できるトラブルもあるだろうよ。ただ、それをやりすぎると何もかも大人しく丸く収まろうとしちまう。俺はそこが気に入らねえんだ」
明子が少し身を乗り出す。「でも、私たちだってルールばかり増やしたいわけじゃないんです。目的に応じて会話のタイプを見極めたいだけで。深草さんがおっしゃるように、腹を割るって大事ですよね。でも、相手の状況や目的を読まずにぶつかるのは、ただの自己満足に終わるんじゃないでしょうか」
「へっ、やけに理屈っぽいな。だが、あんたの言葉もわかるよ。会話ってのは、相手の内面を想像しながらやるのが常識だもんな。ハイコンテキストとかローコンテキストなんて言葉もあるが、内面を勝手に読みすぎて、余計なバイアスが生まれることもあるだろ?」
深草は一息ついたあと、わざとらしくため息をつく。
「まあ、俺がとやかく言ってもな。お前らがそれで上手くいくんならそれでいい。それに、雑談か交渉か、それともお互いの体験談を聴き合いたいだけか…最初にわかってりゃ確かに話は早いかもしれない。けどな、『落とし所』だの『次のアクション』だの、そんなもん頭でっかちに考えてると、肝心の感情のやりとりが置き去りになりそうで怖いわ」
健二が横目で明子をうかがう。明子は少し俯きながら言葉を継ぐ。 「そうですね。私たち、つい先に『落とし所』なんて探しちゃうかもしれない。でも、何も考えないで衝突して、取り返しのつかないことになるのも嫌で……」
「ははっ、何にせよ自分が傷つくのは嫌だってわけだな。確かに生々しい痛みは避けたいよな。いいんじゃねえのか? 結局は当事者同士の納得が一番なんだし。気の合う相手とはちゃんとやっていけるんだろうよ」
そう言いながら深草は椅子の背にもたれ、しばらく目を閉じたまま黙り込んだ。ややあって、ぽつりと呟く。
「…どこまで行っても、会話は難しいもんだ。俺のような性格だと、しょっちゅう事故るからな。そうやって作り上げたガードや前提確認を、あんまりバカにする気もねえんだよ。何も言わずに傷つけるよりは、まだそっちのほうがマシだろうしな」
健二と明子は思いがけず優しい響きをもった深草の言葉に、そっと顔を見合わせた。健二が静かに言う。
「ありがとうございます。あなたなりに気遣ってくれてる部分もあるんですね」
「勘違いすんな。俺はただの負け犬さ。あんたらみたいに穏やかに構えてられれば、そりゃ気苦労は減るんだろうけど。俺は感情を抑えきれん。だから、あんたらはあんたらで、前提を確認するなり落とし所を探すなり、ご自由にどうぞ。ただ、ほんのちょっとは、どうにもならん感情を抱えた人間がいるってことを覚えといてくれ」
その言葉に、明子はしっかりと頷いた。 「ええ。会話の前提を整えて話すっていうのは、あくまで手段でしかないですから。いつだって、直接ぶつかる道も選べるってことを忘れないようにします」
「はいはい、そうしな。じゃ、俺はもう行く。こんな居心地の悪いところで、説教めいたこと語っても何にもならねえからな」
深草は乱暴に腰を上げると、足早に部屋を出ていく。閉まるドアの音がやけに大きく響いた。 健二と明子は互いに顔を見合わせ、少しだけ苦笑いを漏らす。
「でも…なんだかんだ言って深草さんなりに気にかけてくれた感じがしたわ」
「そうだな。あの人みたいに極端に暴れたり卑屈になったりする前に、俺たちがある程度確認作業しておくのも悪くないって、逆に納得できたかもしれない」
そう呟いて、健二はカップの残りのコーヒーを飲み干した。 明子もまた小さく息をつき、にこりと笑う。 「これからいろいろタイプ分けして話してみても、いいかもしれないわね。まずは軽めの雑談から始めて、交渉や取引が必要になったら少しモードを切り替える……そんなふうにやってみましょう」
「そうだな。で、もしトラブルが起きたら、起きたでどうにか乗り越えるしかねえ。大事なのは、最終的に互いが納得できる落とし所を探っていくことだろうし」 二人は視線を交わしながら、深草の足音が遠ざかっていった玄関のほうを振り返った。
少し冷えた空気の中、机の上には整理しかけたメモが並んでいる。そこには「会話のタイプ」「前提の確認」「距離感」「ハイコンテキストとローコンテキスト」など、ぎっしり書き込まれた言葉たちが小さく息づいていた。互いのために、もう少し上手くやっていくために――それは決して無粋な確認なんかじゃない。一筋の光のような、すれ違いや失敗を防ぐための方策なのだ。そう二人は改めて感じ取りながら、会話の続きを始める準備をしていた。