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ライフログの値打ち; なんでも記録しておこう。その価値は20年後にしかわからないのだから。

ライフログとは、文字通り生活の記録のことである。生活を音声や画像や動画、あるいは体組成計で表示されるような健康状態も含めて長期的に記録することをライフログだと私は捉えている。そのようなライフログを蓄積しておくことによって、(1)自分自身の好みや偏り、最近のトレンドを知ることができるという実用的な利点もあるし、(2)思い出として同じイベントや体験をした仲間、あるいはその体験した場所を再訪して変化を楽しむといった「懐古」の楽しみを取得することができる。

かつ、ライフログというのは自分自身で記録する必要がある。なぜならば、ライフログは自分自身のログであるから、自分自身が記録しようと思わなければ記録できないからである。

しかし、ライフログを継続記録するための障壁も現在は多い。例えば、ライフログは記録した瞬間にそれがデータとしてすぐ利活用できるわけでもなければ、「懐古」の情緒が湧くわけでもないからである。また、問題点とそのような記録にはだんだん減ってきているとはいえ、写真一枚撮るのにもそれなりに手間がかかる。また、ライフログも「記録しっぱなし」にできる機器もあるが、それらの中で数十年後に価値ある瞬間を選抜するのは非常に骨が折れる。すなわち、大量のログを保管・整理・要約するのに非常に手間がかかり、圧倒されてしまうのである。

ところで、子供の頃は、写真が嫌いであった。なぜならば、親がやたらに家族を並ばせ、写真を撮る悪癖があったからである。もちろん、家族旅行したら記念写真の一枚や二枚撮ってもいいと思うが、一日に数十枚撮られるともう旅行を楽しむどころではないというのが子供の頃の私の感想だった。そして、だからといって、それから数十年経った今、そのアルバムを頻繁に見返している(整頓したり再編集している)というわけでもなさそうなのが、また腹が立つところでもある。

話をライフログに戻す。このようにライフログの一環として画像を残すというのがあるが、それもあまりにも多いと整頓するだけでも圧倒されてしまう。例えば私の親のように大量の撮影をしなかったとしても、20年間にわたってスナップショットを撮っていれば、その量は膨大である。その中には、当然どうでもいいものもあれば、いったいなぜ撮影したのか、どこでいつ撮影したのか誰にもわからないものもある。ライフログとして再編集したくても圧倒されてやる気が出ないというのが実状なのだ。

しかし、先月、スマホの機種変更に伴い、手持ちの画像と動画をほぼすべてGoogleのクラウド(Googleフォト)にアップロードした。私は今まで知らなかったが、Googleフォトにはフェイスグルーピング機能というのがあり、それによって、任意の人物が写った画像だけを抜き出してくれるのだ。これを使えば、たとえ数千枚の画像であったとしてもその中から、重要人物の画像だけを抜き出して、さらにそれを撮影年代順に並べて、変化あるいは変化していない部分を楽しむことができる。つまり、ライフログの思想にもとづいてデータ蓄積をしていたものの、実際にはログを要約する際に人力で整理整頓せざるを得ないという大問題があったのだが、フェイスグルーピング機能はその一部を大幅に解決してくれた、ということである。

ライフログについては今後もテクノロジーの進展によってさまざまなログの「要約」の仕方、「統計」の取り方が提案されてくることだろう。もちろん、それは自分たちのデータをテック企業に管理させるということでもあるわけだが、私は楽観的であり、ライフログ本来の楽しみがこれから本格的に味わえるようになるかと思うと、たいへん楽しみである。

(1,509字、2024.09.28)

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