グチ:雑談に対し適切に反応/スルーができない
冠婚葬祭イベントが発生したため、一時的に実家にいる。当然、親や親戚と一緒に過ごすことになる。そこで、私はほとんどの時間、押し黙ったままである。なぜならば、過去に言い争いになり、トラブルになり、私自身情緒的になりカンシャクを起こし、自分自身の苦痛を高めてしまった経験からそうするのが最良ではないが、次善の策として、まずスルーして無反応、何か指示出しやおたずねがあれば、ゆっくりとはっきりと慎重に言葉を選んで、余分な刺激や含みを与えないように反応するのが今の私に実行可能な限界だと認識しているからである。
肉親たちの会話とは、例えば次のようなものである:
この会話は噛み合っていない。というのも、母は形式的には体験談を述べ、疑問点としては他の運転者がなぜそのような行為に出たのか、その意図がわからないということを挙げているのに対し、父は母の疑問には答えず、むしろ母が相手の行為を不思議に思う前提をただ反復するだけだからである。
確かに、その前提は既に共有されているので、おそらく正しいし合意も取れる点ではあるが、母の発言の時点でそれは明らかに関心事ではないことがわかる。つまり、父の説明はこの断片に限って言えばトリビアルである。だがトリビアルであるにも関わらず長い。その上さらに反復までする。このような会話を同じ車内で何度も聞かされると、それらを聞き流すのは私には困難であるし、子供の頃は反応してしまっていた。そして、反応するときは当然訂正を求めるのだが、親の声がそもそも大きいため、私はそれ以上に声を張り上げなければそもそも聞き取ってもらえない。そして仮に聞き取ってもらえたところで、どこかで親の方が無反応になる。なぜならば、論点自体に関心を喪失する、もしくは同じ論点を維持する気持ちがなくなって、周囲の状況変化もあいまって別の連想ゲームを始めることに気が傾くからである。
些細な点を取り上げたが、このような会話が継続的におこなわれていても、おそらく情緒的には私の両親のほうが私個人よりもハッピーな道を歩んでいるのだろう。なぜならば、不平不満を言い争うことがあっても夫婦という関係が継続しているからだ。慣れているのかなんなのか、私にはわからないが、噛み合わない会話であったとしても、発声し合うことでそれなりに満足を感じている?ぐらいしか想像できない関係である。
そして一方で、その現場に居合わせてしまう場合、私は負荷を感じずにそれを聞き続けることができない。なぜならば、そこで大声で割り込んでも私自身も楽しくないし、親らにとっても楽しくない発言をしてしまうからである。要するに、割り込もうと思ってしまう時点で私は会話内容そのものに腹を立ててカンシャクを起こし、不機嫌になって当てこすりや皮肉を言いたくなってしまっているのだ。それを表明したところで、両親らも反発するか、私をからかうモードに入るぐらいのことで、私も相変わらず不快なままだし、いいことがない。だから、押し黙っているが、それが苦痛である。誰も悪意は無い。私に気を遣ってくれて段取りを手配してくれたり、敢えて頻繁に話しかけないといった自制を向こうも以前よりはしてくれている気配もある。ただ、それでも自己抑制による苦痛が残るし、その上それを「被害者意識」「自己憐憫」に短絡させないようにするのに非常に苦労を感じるのである。
例えば、依存症の害を解く本や動画などでは「時間をムダにした!」とか「単なるひまつぶしで悪いドーパミンに浸かっただけだった!」といった時間を減らす工夫が紹介されていたりする。それはそれで参考になることもある。だが、たとえスマホアプリの頭を使わないヒマつぶしゲームであっても、苦痛に満ちた時間でないというだけでだいぶ私としてはプラス評価になる。そのぐらい、肉親の「雑談」というのは私にはスルー能力や注意資源の消費を伴うつらい状況である。
当然、このような状況では私はリラックスできていない。そのことは周囲の人からも気配として感じ取れるほどガチガチである。かつ、黙り込んでいる。このような人には話しかけにくいし、私自身も話しかけられたり、例えばゲームプレイやロールプレイが必要な場面では極端に注意力と思考力が低下する。どうにかしてこのガチガチを克服するか、もっと軽減できないものだろうか? 今日は「ひょっとして一種の聴覚過敏ではないか?」と疑ってみた。なぜならば、同じ発言内容をテキストに起こしてもらうならば、少なくとも声量の課題についてはスルーできるからである。
しかし、それ以外のことはまだまだわからない。できれば、常に余裕をもって、慌てず焦らず狼狽えず、リラックスして雑談やプレイに参加したいと私も、内心思ってはいるのだ。だが、それが今はできない。実に残念だ。
(2,172字)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?