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自分自身を幾何学的な点だと自覚するとき:あるいは概念における量と質への二極化

古典的な理解では、概念とは特徴の束である。特徴の本質、つまり特徴が特徴であるために不可欠な特徴づけはそれがほかの特徴と異なっていることである。

この前提として、我々には二つの異なる特徴を識別する能力がある(ここで我々が作為的に区別しているのか自然な区別を発見しているのかは棚上げしておこう)。また、単に特徴が点在しているのではなく、概念という基体 bearer にそれらを所属させた状態で認識し、仮に基体それ自体を知覚できなくても、基体同士を識別する能力があらかじめあるということになる。

我々はこれらの能力を行使して、概念を識別し、それらをレゴブロックのように組み合わせて命題や、命題の連鎖である推論を編み上げるということになるだろう。つまり、ボトムアップで考えるやり方だ。

一方、このようなボトムアップな見方──あるいは原子論的な見方をそもそも倒錯(とうさく)した見方あるいは実践として、反対に考える人もいるようだ。

例えば、我々は潜在的には命題の集合として分析できる或るトータルなものを認識しているだけであって、それを分割することではじめて、命題と関係、命題とその内部の概念を析出(せきしゅつ)できるようになるというものである。例えば、「ユーラシア大陸は東西に長い」とか「アメリカ大陸は南北に長い」といった文を表現する前に、我々は世界地図を広げてその意味をなんとなく悟ってしまう。トップダウンで全体の意味を知ってから、そのなかでどの部分をどんな文で表現しようか、表現した文と文との間にはどんな関係があるかと考える。また、文の中には主語と述語が分析できるがこの二つをどのように区別するかも考えてみたりする。

この両極端なボトムアップな考え方とトップダウンな考え方には、両方とも違和感を感じてしまう。なぜならば、ボトムアップな考え方では細かな特徴の束がみつかるばかりで、束を束ねる原理がどこにも見あたらなくなるし、そうかといってトップダウンなやり方ではどこを「トップ」とするかで意見衝突したり、またそれをどう切り分けていくかでも何通りものやり方があって、果たしてこれは対象となる事柄に沿って切り分けているのか、それとも自分の好みで分けているかも明瞭ではなくなりがちだからである。別の言い方をすれば、そもそもどこからどこまでが「全体」なのかが曖昧なまま残されている。そしてもしそうなら、ボトムアップでパーツを集めても、単なる寄せ集めと生きた「全体」との区別がつかないことになるだろう。

ところで、進化の歴史を見ると、生物というのは気が遠くなるほどの時間を使った割には必ずしも最適な形態で繁殖しておらず、むしろその都度の環境変化に適応するために、継ぎ足し継ぎ足しで進化していって、たまたま生き残ったのが現在地球上にいるだけのようなものだそうだ。

そうした知見から類推・想像するに、我々は精密な部品からできた特定の目的に貢献する道具のようなものではなさそうである(いわゆる自由の刑)。つまり、我々は人工的な特定の道具のようにその本来の用途にどれだけ使えるかで計りきれるものでもなければ、健康診断の結果のように部品ごとにバラバラにして分析してみせても、取り付くせるようなものでもない(我々は自分自身を特徴の束以上の何かだと思っていて、少なくとも自分が当事者であるときと傍観者であるとは必ず区別できる)。

だが、テクノロジーが進めば、我々は多次元の評価軸上に複雑な位置(=特徴量)を持つ存在なのだと自覚せざるを得なくなるだろう。そのとき、我々は空間上の点として正気でいられるだろうか? それとも何かわかりやすい特徴の下に団結できるだろうか?

(1,508字、2023.11.01)



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