実存は自己原因に成れるか?
実存は自己原因 causa sui / self-cause に成れるか?というのは、この私という特定の一人の人間が、どのようにして二重化した存在者に成れるか?という意味である。また、ここで「原因」というのはアリストテレスが言ったような広い意味で捉えてほしい。すなわち、何かを動かす目的や材料や必要条件といったものも含み、物理的原因に限らない。ただ、物理的原因と共通する点はそれらが結果 consequence に時間的に先立ち、それら無くしては結果がもたらされないという点である。
実存、すなわち私という存在者を少なくともヒト以外の動物から区別する特徴は、自分自身を概念化するということである。すなわち、「私は~です」と自分自身を言葉の組み合わせで表現し、かつ言葉で言い尽くそうとすることである。なぜならば、動物は言い尽くそうとしたりはせず、せいぜい「私はあなたのつがいの相手として魅力的な個体です」とか「私はあなたに友好的です」といった態度を取る程度だからである。また、人間には将来の自分自身を構想する能力があり、これは人間が概念によってあらかじめ来るべき「自己」を構成するということだからである。
その一方で、もちろん実存は概念ではない。なぜならば、実存は飽くまで存在者であり個体でありトークンであり、概念が適用される対象(外延)だからである。例えば、我々は無数にある果物(果物の外延あるいは集合)と、「果物」という文字列や概念(これは果物の定義を含む)とを見間違えることは無い。なぜならば、概念は個別の果物のように触ったり食べたりできないからである。同じように、私の肉体は触れるし、体重計など各種測定機器でその物理的性質を計測可能であるが、他方で私なるものの概念あるいは私というブランドは目に見えない。それは無形文化財である。
私が単に動物の一個体として生存するだけでなく、同時に言葉を操る人間の大人になるためには、自己概念化=自己ブランド化を樹立しなければならない。なぜならば、この自己ブランド化というのは外部からの承認によって成し遂げられるものであり、大人は所属する共同体からの承認をたとえわずかであったりありふれたものであっても獲得しなければ生存することすら難しいからである。
抽象的な言い回しが多くなったが、簡単に言えば、例えば自己紹介というかたちで自分を記号化して誰かに提示し、そしてそれを真正のものとして客観的に認めてもらうというやり取りのことである。我々はそのように自己ブランドを他者に提案し、同様にブランドとしての無形の権威を持っている他者から認めてもらうことで、自己ブランドを樹立し、信用を獲得することができる。
このような自己ブランドの究極的なかたちが「生き甲斐」や「人生の意味」と呼ばれるのだが、それが保てているときは現状 as-is とあるべき姿 to-be とが両方承認されており、また自分自身でも納得できるかたちとなっている。
だが、自己ブランディングにはどうやら空白部分があるらしく、つまり既存の他人からの世俗的な承認だけでは収まりがつかないところがあるようだ。そういう強い自分自身にしかないこだわりや自己の捉え方をどうやって扱うべきかにはいろいろなやり方があるのだが、有力なものがみつからない場合には、無意味な言葉でバンソウコウを貼っておくしかない(これは外在的で外挿的な装置だ)。場合によってはそれがその人を他の人から区別するものともなり、あるいは自分より偉大な何者かへの信仰と呼ばれることもあるだろう。
(1,467字、2023.11.20)
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