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声がでかい方がいい? No voice No existence

この毎日更新記事もどうにか続けられている。自分なりに内容のあるもの、以前書いた記事とは異なるもの、プラスアルファがあるものを書きたいと思っているのだが、今日は不調である。

自己紹介のひとつとなるが、私はすぐ興奮してしまう。興奮するとどうなるか。まあ、私自身酒を飲めないのでわからないが、どうも飲める人が酩酊したときとあまり変わらない症状が出るようだ。その中でもよく指摘されるのが「声がでかい」である。最近は婉曲に「マスクをしてください」と言われたこともある。直近の転居も声がでかく旧居の壁が薄かったことによる。声デカの代償は大きい。

子供の頃に滑舌(かつぜつ)がよくなかったのもあってか、あるいは田舎の一戸建ての家の中で声を張り上げて肉親を呼んでいたためか、はたまた合唱でもっと声を出せと指導されたためか、とにかくこのクセが直らない。

直らないのには原因があり、また声を大きくするメリットもあるからである。まず原因は単純に調子に乗ったときに興奮してしまい、第三者に対する配慮に欠けるからである。言い換えれば、自分自身のスピーチと相手に集中し過ぎてしまうからである。

次にメリットは、大きく発声すれば発音を比較的明瞭にできるから、とにかく相手に伝えたいワードを聞き取ってもらえるという点、さらにどうやら人間というものは話の内容だけで説得されたりやる気になったりするものではなく、話すときの勢い momentum にも影響されるようで、「熱気をもって話す」ことは説得力や私自身を相手に印象づけることにかなり貢献するらしいからである。

特定多人数の前や屋外でスピーチするときや、話が長すぎる人の話を叩き斬るときには威勢が必要であり、音量も必要である。しかし、いつも刃物を振り回していては危ないように、大声も使いこなせる道具にしなければならない。

それに、だいたい威勢の良さで説得力を得るというのは政治家や事業家がたまにやるぐらいなものであって、学術的論理的な追求とは無関係である。確かに発声自体はもちろん社会生活に必要なことではある。不思議なことに大声は出せても挨拶ができない時期が長かった。今は練習を重ねて社交辞令もそうしようと思えば言えるようになったが、声のでかさもキープされてしまった。

だが、こういう文章の上では声のでかさは関係ない。違うところで価値をつけ差別化して読んでもらわないといけない。正直、大声より執筆スキルを優先したかった。なぜならば、そうすれば大学などでももっといい成績や文章を残せただろうし、今ある劣等感も減っただろうからだ。

そういうわけで、私がダンマリにみえたときは大声を気にして自重しているのだと思ってほしい。

(1,109字、2023.11.22)


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