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誰も気に留めない綺麗な言葉たち

子供が受ける教育、そして受けるべきしつけのひとつは、他人と長く一緒に過ごすための態度を身につけ、そして協力して決めた目標に立ち向かえるようにすることだ。なぜならば、人が一人でできることは極めて限られていて、また既存の集団に加入して依存することは生きていく上で必要だからだ。

他の人々と協力しなければ個人としても生き残れなかったり、他の集団から致命的なダメージを受けるかもしれない。もし私が子供に何かを教えるとしたら、このことを第一に教えたい。それは、私がそのように教わらなかったからだ。あるいは誰かが言ってくれていたのかもしれないが、幼く愚かで暴れ者の困ったチャンであった子供の私は聞く耳が持てなかったのかもしれない。仮に聞いていたとしても、まだ苦労したわけでも悲惨な目に遭ったわけでもないから「何か裏道・抜け道はないのか?」と懐疑的になって熱心にならなかったかもしれない。

私が代わりに受け取ったメッセージは「みんなと一緒にいると楽しい!」とか「素直にがんばれ!」とか「ありのままの個性を発揮しよう!」とか「思ったままに自由に表現しよう!」といったものであった。これらのフレーズにうまく自分のポジティブな特徴を重ね合わせて能力を伸ばす訓練に努めたり、仲間たちと和気藹々(わきあいあい)と過ごせる人もいるのかもしれないし、そのほうが多いかもしれない。あるいは、そんなコトバにわざわざ注意を支払わない人の方がずっと多いのかもしれない。例えば合唱で人間の美しい理想を描いた歌詞をみんなで唄っていたとしても、それはコンクールで成果を出すためにキレイな調子で合わせることを目指しているだけで、歌詞の内容と自分たちの現実を比較する作業なんて誰も興味がないようなものかもしれない。

実際、合唱の指導に熱心な音楽教師に歌詞の内容と一般的な教育方針とは一致するのかとたずねたところ、「関係ない」と回答をもらったこともある(当時はただヒドイ!と思っただけだったが、今思えば率直な回答に感謝すべきだった)。

私の特徴はコトバを真に受けるところにあって、それが現実とズレているときに、そのズレをどのように補正したらいいのか苦痛を感じる。もちろん、答えは簡単 simple だ。言葉に期待せず気にせずやり過ごせばよい。しかし、言葉がそれほどどうでもいいのであれば最初から耳を塞ぎたいものだが、やはりどうでもいいこととそうでもないことが混ざっていて自分でゴミの分別をして、ノイズを削ぎ落としてシグナルを汲み取らなければならない。なぜならば、そうせずには大人になれないし、生き残れないからだ。

他人を誠実かつ迅速に手助けすることが誉められ、また自分自身の得にも成るような体験ができるように私がなったのは、成人してからだいぶ経って、そこからここ十年ぐらいのことである。それはつまり、たまたま自分が有益に貢献できる集団に加入できたということだ。仮に私以上に従順で献身的な働きを所属集団に捧げる人がいたとしても、その集団が構造的な課題を抱えていて、余裕がなく、逸脱行動ばかりする人物を統制できないならかえって損するばかりか、心身を壊してしまいかねないだろう。貢献能力を伸ばせたこととそれがマッチする環境にたどりつけたことは幸運だった。

私は自分自身の妙な特徴のためにスローガンや掛け声に注意を傾けすぎたが、これから前半生を生きていく人たちにはそういったコトバの裏を読みつつも、腐らずに生きてほしい。

(1,426字、2023.11.18)


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