人生の周回プレイ
「人生は一度きり」という言い回しがある。この言い回しを根拠として「だから楽しまなくてはならない」などといった帰結を言う人もいるのだが、別に仮に人生が2度以上あったって楽しまなくていいということにはなるまいと毎回思う。
輪廻転生の可能性を除外すれば、人生は1度きりであり2度目はない。今日という日も1度しか通過せず2度目はない。だが、細かく言えば、「1度」ですら無いという言い方もできる。なぜならば、そもそも2回目があり得ないようなことについては「回数」という概念が適用されないからである。1度切りであると言おうと無いと言おうとどちらでもよいが、要するにそういう特別な一回性であるということである。
ところで、私はカレンダが好きである。人生が一回性のものであることは私にとっては不安を拡大するものだ。ただでさえ、日本人には不安遺伝子が多く、私個人としても不安になりやすいのに、その上カレンダが手元になく、手元にあったとしてもどの数字が「今日」なのかわからなければ不安はますます増すばかりとなる。昼夜がわかり、何か書き記す手段があれば、すぐにでも日数を数え出すだろう。昼夜とは地球が太陽の周りを周回した結果起こる循環した現象であるから、とにかく循環、繰り返しがなければ私は正気を保つことができそうにもない。私の部屋はカレンダや時計だらけであり、それは私がそれらを見ると安心するからである。
カレンダのような一回性を構造的に隠蔽してくれるものがあるから、それを失うと不安になるのだろうか? それとも一回性にたまたま不安を感じる人のためにカレンダがあるのだろうか?
例えば地理学によると、時間の感覚なしで人生を過ごす部族も地球上にいるそうである。彼ら/彼女らは反復の指標となるような天体の見えない密林の奥でずっと生活しているからそうなったのだろうというのが定説だそうである。それでも彼ら/彼女らは集団生活をして何千年も生き残って来たわけだ。してみると、カレンダが無くても人間は生活できるのだろう。
しかし、いったんカレンダを手に入れてしまうと、それは農耕や徴税のような集団運営に便利であるし、自分が人生のどの時間的位置にいるかも教えてくれる(つまり年齢だ)。それは人生に動かせない点数を与えられるようで、窮屈な束縛的なものにも感じられるが、年齢ステレオタイプで行動する人がいたり、一定の年齢の人は健康のためにこういう検査を受けてくださいといった便益を得ることもできる。それは安心につながる。
カレンダによって一回性は失われる。言い換えれば「今」も失われる。というのは、我々は大きな繰り返しの中の一部で、既に繰り返されたことを今更ちっぽけな個人が反復してどうなる?という気持ちも湧いてくるからだ。しかし、そもそも実際は一回性が隠蔽されているのだから、それを回復すればよいのだというメッセージが信仰を説く人や自己啓発本の中で取り沙汰される。我々も何かに夢中になっている際はカレンダのことを忘れることができる。どちらが本来の人生なのかという価値判断は保留すべきだろうが、自分個人の中で一回性を回復するやり方は常に探し続けなければならない(なぜなら、定番の「方法」にしてしまうともはや一回性ではないから。一回性は一回的なやり方で回復しなくてはならないからだ)。
(1,366字、2023.09.18)