視線と握手
今までの自分の人生に欠けていたものは何か。それはいろいろあったし、今もある。そのために、私はいまもう一歩のところで幸福を取り逃している。なぜならば、拒絶されたり敬遠されたりして不幸になることをおそれているからだ。
例えば、それは相手と視線を合わせて見つめ合うこと、相手と同じものを見つめること、相手と同じ痛みや喜びを感じることだ。あるいは例えば、手を取って握手すること、一緒に写真を撮ること、それらを見ながら語り合うことだ。それらは親密な間柄、肉親の間では必要なことなのだ。だが私はそれをしてこなかった。少なくとも十分だとは言えない。なぜならば、それほど重要だとも思っていなかったからだ。しかし、今になってそれが幸福のすべてではないが重要な源泉のひとつだと自覚するようになった。
大人になって、ずいぶん経ってから、ぬいぐるみを買うようになった。なんでもいいというわけではない。それなりの品質がなければだめだ。ぬいぐるみを撫でていると少しだけ心が安らぐ。多分それはぬいぐるみだからであって、私に何の興味もない誰かを撫でても同じ気分にはならないだろう。ましてや私に興味のある芝居をしている誰かにはもっと気が乗らないだろう。ぬいぐるみはぬいぐるみだから、それを撫でて少しは気が安らぐ。人からみれば、孤独な人物のつまらない慰めのひとつにしかみえないだろう。実際そうだ。子供のように無邪気な気分ばかりでもない。むしろ惨めな気分とこれこそ純粋な安らぎなのだという錯覚とが交互に入れ替わる。
ただ、それは単に夢想することとは異なるのは確かだ。なぜならば、実際にボリュームのあるぬいぐるみを通じて純粋な安らぎの感情がそこにいてくれるような気分を味わい、それと共に場所と時間を共有し、そしてそれを触覚で感じ取っているからだ。オンラインで仮想空間の風景を眺めながら「歩く」のと、実際に街を散歩するのとがどこか違うように、やっぱり自分の触覚を使うのとそうでないのとはどこかが違うのだ。
健康にずいぶん気を使ってきた。だから気分はむしろ若い頃よりも安定していて元気なぐらいだ。それなのに、いやそれだからなのか、一種の寂しさがかえってクローズアップされる。これもまた、余裕が出てきたから今までは後回しにしていた孤独感が前に出てきたのかもしれない。またトラブルが起きたり、他にかかずらうことができれば孤独を感じるヒマもなくなるのかもしれない。複雑な気持ちだ。誰かと一緒に過ごしたくなるが、同時にそれがわがままであることも心得ている。誰に何を申し出ればいいのか、それもわからないでいる。
(1,074字、2024.03.18)
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