見出し画像

数え過ぎてはいけない?

「数える」という営みは、いったい何をしているのだろうか。

たとえば、目の前にあるリンゴや椅子の数をチェックするとき、あるいはオンラインゲームのランキングで自分の順位を眺めるとき。僕らは当たり前のように「1、2、3……」と数を割り振っているが、そのプロセスには案外複雑なステップが含まれている。

まず、「数える対象」と「数えない対象」をどう区別するのか。さらに、「すでに数えたもの」と「まだ数えていないもの」をどう分けるのか。そして、数が重複しないように順序を守り、かつ漏れがないように管理しなければならない。こうした一連の作業は、どれも「数える」という行為が単なる反射ではなく、意外に高度な認識や判断を要求することを示している。

しかし、そもそも数を知っていなければ、数えることすらできない。しかも「数はどこまでも増やせる」という無尽蔵性を知っている必要がある。なぜならば、もし7という数までしか知らなければ、8個の椅子でも13段の階段でも「数えきれない数」として同列に扱うしかないからだ。「1ずつ増やしていけば、いつかは届くはず」と信じるその感覚こそが、数えるうえでの前提となる。

さらに、「数」には基数的な面と序数的な面がある。ひとつ、ふたつ、みっつ……と数えてリンゴをかごに収めるとき、そこには「いくつあるか」という基数の視点がある。一方で、オンラインゲームで順位を割り振られるとき、「あなたは42万9027位です」とか言われてもピンとこないかもしれない。だけど、その番号は少なくとも重複しないID、つまり何番目かを示す序数的な機能を持っている。順位をひとつ上げるのに必要なポイントを計算したりするのも、言ってみれば「すでに並べられた数字をなぞる」作業に近い。

ここで興味深いのは、「数える」という作業を大きく分けて二つのフェーズで見られるということだ。一方は、未知の対象を「リンゴである」「数えうるものだ」と承認して取り込む瞬間。これは、他者=外部の超越性をいったん剥ぎ取って、自分の内的な観念や言語規範の枠組みに押し込むようなプロセスでもある。たとえば道端で初めて出会った奇妙な果実を「あ、これリンゴの仲間かな」と判断して、その数をカウントに加える(枚挙する)、というわけだ。

もう一方は、すでにナンバリング済み、いわば「外延化された」世界に数字を当てはめていく作業。オンラインゲームの順位なんかはまさにそうで、あらかじめ全員に割り振られた序数の一覧があって、自分はそこを上下に移動するだけ、という状態である。

実は僕らがふだん何かを数えるとき、どちらのフェーズでどんな認識が起きているのかは、外からだけでは見えにくいし、場合によっては数えている本人すら自覚していないかもしれない。しかし、もし最初のフェーズ、つまり「未知の対象を数えうるものとしてとらえる行為」がなかったとしたら、僕らはそもそも何ひとつ数え始めることができなかったはずだ。

未知の対象を既知へと翻訳し、その超越性を量のフォーマットの中に収める──こうした認識の跳躍を、僕らはいつ、どこで身につけたのだろうか。言葉もそうだが、「これは数えられる」「これはリンゴとして数えるに値する」という判断能力が自然と与えられているように思えるのは、不思議と言えば不思議である。そしてその不思議さこそが、人間が「数える」という営みによって世界を把握できるカギになっているのかもしれない。

言い換えれば、「数えられる」ようになるために僕らは世界とどんな契約を結んでいるのか。そこに着目すると、普段あまり意識していない認識論的な深淵が顔をのぞかせる。ありとあらゆる対象に対して「1、2、3……」と割り振ることが可能な背景には、驚くべき能力が潜んでいるのだ──ということを、改めて考えてみるのも面白いだろう。

もっと言えば、「数える」という行為の背後には、僕らが世界をどうやって把握しているのかという根源的な問題が潜んでいる。たとえば何かを「リンゴだ」と見なすとき、僕らはほぼ自動的に「リンゴというカテゴリー」にその対象を落とし込んでいるわけだが、その判断ができるのは、どうしてなのか。

もちろん、日常的には「見た目でわかるでしょ」とか「昔からリンゴは知ってるし」と言いたくなるところだ。でもその「知っている」という状態そのものが、実は不思議な成立過程を経ている。幼いころ、僕らは「これはリンゴだよ」「これはバナナだよ」と大人に教わる。けれど、そのとき初めて目にする果物を「リンゴ」と呼ぶ根拠は、子ども本人にはまだ見えていないかもしれない。大人が「これがリンゴというやつなんだよ」とカテゴリーを設定してくれることで、「あ、これリンゴっていうものなんだ!」と理解が芽生える。

それと同じように、「数える」という行為もまた、どこかで誰かから「これは数えられるもの」と教えられたり、自分で「いま数えても大丈夫そうだ」と判断したりすることで成立している。つまり、「数えるべき対象」を認めてはじめて、1、2、3……とカウントできる。逆に言えば、「これは数えちゃいけない」とか「これは数える価値がない(あるいは不可能)」と見なした瞬間に、その対象はカウントから外れてしまう。

オンラインゲームでの順位がわかりやすい例だ。極端に言えば、ゲームの外にいる人からすれば「そんなランキング、数える意味ある?」と興味を持たれないかもしれない。でもゲーム内にいるプレイヤーにとっては、ランキングこそがモチベーションを左右する重要な要素だったりする。そうなると「数えられる」こと、あるいは「数えるに値する」と思うかどうかが、その対象の重要度に影響を与える。

もっとも、これは別にゲームに限らない。仕事上での売上個数やテストの点数、SNSのフォロワー数だって、「わざわざ数えるべき(あるいは数えたい)対象」として設定しないことには始まらない。僕らは日常生活で、無数にあるデータのうちどれを数えるのか、無意識に選別しているのだ。

こう考えると、「数える」ことの背後にはいつも「これを数えたい(または数える必要がある)」「これは数えたところで大した意味はない」という価値判断が絶えず働いているのが見えてくる。僕らが「数える前提としての無尽蔵な数」を知っているというのは、単に数学的なスキルの問題だけじゃなく、「どこまで対象を広げて数えるか」という欲望や判断の射程の問題でもある。

実際、「数は無限まで続くんだ」という知識を得ると、いろんなものを際限なく「もっと数えられるんじゃないか」と思えてしまう。たとえば生産効率を上げることに躍起になっている企業が、「もっと細かくデータを取れば、より最適化できるはずだ」と思って、すべてを数値化しようとする動きなんかは、その極端な例かもしれない。

けれど、何でもかんでも数え始めたら際限がないし、かえって混乱を招くことだってある。そこには僕らが「数える/数えない」を取捨選択する基準や、その行為がもたらす効果と負担のバランスが付きまとうのだ。

この「取捨選択の基準」もまた、外からは単純に見えないし、本人が明確に意識しているとも限らない。気づいたらフォロワー数を気にするようになっていたり、逆にいつの間にかゲームのスコアなんて数えるのをやめていたり──そういう変化が起きるのは、自分や社会の価値観が微妙に揺れ動いているからだろう。結局、「数えられるもの」かどうか、「数えたくなるもの」かどうかは、僕らの認識論と欲望が交錯する場に浮かび上がる課題なのである。

だからこそ、「数えるって何?」とあらためて問い返してみると、僕らの思考習慣や社会的な規範、さらには根底にある好奇心や欲望までもが反映されていることに気づくかもしれない。そして、もしかすると「数えること」が当たり前に思えていた世界の見え方が、ちょっと変わるかもしれないのだ。

その意味では、「数える」という行為には単純な作業以上の深遠さが宿っている。単なる「1、2、3……」が、いつの間にか僕らの世界観や存在理解をも形づくっているのだから、本当に不思議なものだ。そうした根源的な問いをめぐって、僕らは今日も何かを数えたり、あるいは数えないことを選んだりしている。ちょっとした身近な行為に見えて、そこには僕らの認識のフレームそのものが映し出されているのだ──そんなことを考えると、なかなかおもしろいと思わないだろうか。

或る意味では、「数える」という行為は、僕らが「世界を整理する装置」のひとつだと言ってもいいかもしれない。世界にはあらゆるモノや概念が溢れていて、なかには“これって数えられる?”と一瞬疑問に思うような抽象的なものもある。たとえば、感情とか、時間の流れとか、人間関係の深さとか。もちろん、それらを数値化しようと試みる場面もときにはある。たとえば「幸福度を数値化する」とか「睡眠の質をスコア化する」とか。でもよく考えると、そのアプローチはたいてい何らかの恣意的な基準を設定していて、けっこう無理やりな面がある。

それでも「とりあえず数値化しちゃおう」という動機が成り立つのは、やっぱり「数える」行為がコミュニケーションや整理に便利だからだ。大量の情報をいったん数字に落とし込むと、いろいろ比較したり管理したりしやすくなる。これはいわば、世界を“記号として平準化”していくプロセスだ。そしてその平準化がないと、僕らは目の前の情報量に圧倒されて身動きが取れなくなってしまうかもしれない。

とはいえ、「なんでも数えればいい」というものでもない。さっきの幸福度の例みたいに、ちょっと強引すぎると違和感が生まれて、「いやいや、これは数字じゃ測れないでしょ」みたいな声が出るわけだ。そこでは数値化がむしろ“乱暴な省略”になってしまい、対象の豊かな側面が削ぎ落とされかねない。だから僕らは、「これは数値化すべきかどうか」「これは“数えるに値する”対象かどうか」を、しばしば暗黙のうちに吟味している。

あるいは、社会的・文化的な場面においても、「数えること」がひとつの権力として機能することがある。たとえば国や企業が、個人のデータを細かく数えて(取得して)管理するとき、それはある意味、数を通じて人をカテゴライズし、制御する試みでもある。見えにくいかもしれないが、僕らは日常的にいろんな場所で「数えられている」のだ。電車のICカードの利用履歴や、会員制サービスのログイン記録、SNSのいいね数などなど。もちろんそれらは利便性を高める一方で、個人のプライバシーをどう守るかという問題を引き起こす。

つまり、「数える」という行為は一見シンプルなようで、実は僕らの存在を大きく形づくる仕組みと深く結びついている。自分自身が“誰かに数えられる存在”になるということは、「自分が外部の視点のもとに置かれている」ということでもあるし、同時に「自分が数字という共通言語で整理される存在になっている」ということでもある。だから、ここにはなんとも言えない両義性があるわけだ。便利さ、客観性、秩序化の安心感──そして、その裏面にある管理や監視の可能性。

こうして考えていくと、「数える」という行為がただの“数の確認”以上に、人間の認識や行動を左右するパワフルな働きをしていることに気づく。僕らは自分で数えているつもりでも、実は数えられた世界観の中に生きている。たとえば「偏差値」「視聴率」「フォロワー数」「課金額」などなど、日常的に目にするさまざまな数字は、僕ら自身の行動や評価の枠組みをこっそり変えているかもしれない。そんな仕組みを“分かった気”になっているうちは、逆に仕組みのほうが僕らを操縦しているようなものだ。つまり、疎外というやつだ。

もっとも、だからといって「数字なんて全部いらない!」という話にはならない。数字がなければ、僕らは大量の情報をざっくり把握することすらできなくなる。そもそも、ここまで言葉を尽くして「数えるとは?」と論じること自体、すでに「数えること」の価値を認めている証拠でもあるだろう。結局、数えるか数えないか、数えられるか数えられないか、そしてその数字をどう活用するかという判断は、僕らの意識の深いところ──もっと言えば「知性と欲望と社会規範の交錯点」──に委ねられている。

その奥行きを捉えようとするとき、僕らはふと「いま、なぜこれを数えているのか?」「なぜこれは数えないのか?」と自問せざるを得ない。そうした問いかけをしてみると、意外にも自分や社会が何を重視しているか、何を見落としているかが浮かび上がってくるかもしれない。そして、それこそが「数え方」の再発明や、「数えられなさ」の発見につながる。言い換えれば、世界をまったく別の角度から眺めるきっかけをくれるのだ。

結局のところ、「数える」とは世界への接続の仕方のひとつであり、同時に世界からの働きかけに僕らがどう応じるかを物語る行為でもある。いったい何が“カウント可能”で、何が“カウント不可能”なのか。その境界線を見直すことで、僕らがいま当然のように使っている「数」というフィルターの不思議さが、改めて浮かび上がってくるのではないだろうか。

そうやって、いま僕らが何かを「数える」のは、果たして純粋に僕らの主導なのか──それとも、ある種の文化的・社会的な慣習やシステムによって、「数えさせられている」のか。ひとたびそう疑ってみると、日常の中のあらゆるカウント行為が持つ二重性に気づき始める。それはたぶん、不安になるほど複雑で、同時にめちゃくちゃ面白いことでもある。

その複雑さを「やっぱやめた」とスルーしてしまうのは簡単だけど、「いや、ちょっと立ち止まって考えてみよう」と思う人が増えることで、僕らの世界の見え方は少しずつ変わっていくのではないか。そして、その変化こそが、「数える」以上に意味深い出来事として、僕らの思考と行動を新しいステージへ連れていくのかもしれない。

いいなと思ったら応援しよう!