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おかねと「信」のお話
こんばんわ。読んでいただきありがとうございます。
今の私の会社では、「おかねを通じてどうしたら世界中のひとが「幸せ」になれるか。」という非常に遠大なテーマについて真剣に議論して、会社を作っています。つい先日も会社の「ビジョン」や「目的」等について議論する機会がありました。
個人的に金融業というのは基本的に「性悪説」で成り立っている業種だと思っています。例えば銀行の業務においては、人間は不誠実なことを行う前提のものと(他の業種でもそうかもしれませんが)、内部の人間に対しても会社のSuicaの使用履歴、PCの閲覧履歴、シャットダウンした時間等、ありとあらゆるものが閲覧・記録されるようになっています。その考えは内部はもちろんお客さんにも及び、銀行の審査というものが行われ、各種契約書の文言にてお客さんに制約を課して約束が守られるように縛っています。そうした審査の結果、お客さんにお金を貸すことを銀行では「与信行為」と呼びます。与信とは文字のごとく、「信頼を与える」という意味です。「信頼を与える」、、すごく上から目線ですね。信頼を与えるとは、もちろん文字通りお客さんを信頼する(例えば、「貸したお金を返してくれるだろう」と信じるする)ということです。調べて調べて調べて、この(法人個人問わず)お客さんは信頼に値すると組織として判断し、信頼を与えます。例えば住宅ローン等で銀行からお金を借りられたときは、銀行から「信頼に値する人間である」と(勝手に)判断されたわけです。
ちなみに、同じ金融業でも投資運用業では「信託」ということばをよく使います。皆さんも良く聞かれる投資信託の「信託」ですね。この「信託」は、銀行のように自分達(投資運用会社)がだれかに与えるものではなく、お客さんから与えられるもの(お金という大事な資産を「信じて」、「託される」)という意味です。その「信頼」にこたえるべく、投資運用会社は精一杯頑張ります。良く政治家の先生が「国民の負託にこたえるべく頑張ります」という発言をしますが、同じような意味だと思っています。
同じ金融業でも銀行では、信頼を「与える」立場である一方で、投資運用会社は信頼を「与えられる」ものだという大前提で成り立っているという意味で、「信」というコトバの使い方や持つ意味が全く異なっています。
今の会社はどちらかというと信頼を「与える」観点からの業務です。(両面ありますが。)でもどうしたら自分でない人を「信じられる」でのしょうか。今の会社で「与信」をする相手は銀行が取引をするような”しっかりとした”企業ではなく、新興国の農家さんや個人事業主等で、いわゆる「決算書」等のようなものがきちんと整備されているわけではありません。(たとえ決算書があったとしても、今度はそれの決算書自体が信頼に値するのかという議論になります。)銀行的な観点からすればとても「信頼できる」(=与信行為に値する)対象ではありません。
もちろん色々なことを調べ調べ、審査をします。でも同じ会社の人に言われたのは、それが「疑う」という考えではなく、相手のことをもっと「知りたい」という思いに基づいていなければならない。「疑うこと」と「知りたいと思うこと」にはやることは同じでも、厳然たる違いがあると。
単純な二元論で割り切っていいのか分かりませんが、これまで性悪説的な金融の世界でずっと生きてきた私には、なかなかその性善説「的」な考えからの金融をまだうまく咀嚼できていません。
少しでも自分なりに咀嚼できたらまた綴りたいと思います。
読んでいただきありがとうございます。