Reminiscence before dawn
熱くて、寝苦しい夜だった。
痛みをともなう喉の渇きで目が覚めた。
さっきまでの僕はオンラインゲームの、空を自由に飛べる騎士で、白銀の鎧を身にまとい、陽炎のゆらめく東京の、高層ビルの屋上の縁に腰かけて、あざやかな青で塗られた夏の空を見上げていた。
僕は一人ではなかった。同じビルの縁に佇むひとがいた。ひと目で上級プレイヤーとわかる虹色の架空金属の鎧。兜だけを脱いで、中にいたのは金髪のショートカットの女の子だった。
彼女は小さなバグのせいでこのゲームの世界からログアウトできなかった。抜け出すためには、無敵の裏ボスキャラクターを倒さなければならない。
「現実だったら恋に落ちてもおかしくないくらいの時間、私は彼と剣を交わしてきました」
彼女は、背中の、飛行を可能にする大きな円環状のパーツを取りはずして、ビルの縁に置いた。飛び降りるつもりなのだとわかった。ほかの、たくさんの、同じようにゲームからログアウトできなくなって、実質不可能なクリア条件に挑みつづけることに疲れたひとたちのように。
あなたの戦う姿はとてもきれいで、好きでした。
僕はそんな、すごく無責任で、誰にでもいえる言葉を伝えた。きっとこれまでに似たようなことを数えきれないほど言われただろう彼女は、それでも、ありがとうございますと、さわやかに笑った。
「ひたすら戦闘を重ねていけば、いつか倒せると思っていました。けど、実際には遠のくばかりで、どれだけ私が強くなっても、あいつは常に私より少しだけ強いんです」
彼女は好きなひとの話でもするように、明るい口調で、切なげな表情で、語る。
「あいつにも強さの限界があるかもしれない。そういう不確かで都合のいい空想に、希望を託して正気を保つには、私は強くなりすぎました」
彼女は眩しそうに目を閉じた。彼との戦いを思い出しているのだろう。それはやはり恋をしているようだった。決して叶うことのない恋。
「戦わなくても、生きることはできます。この世界で生き長らえることは現実よりずっと簡単です。学校に通ったり、仕事をしたり、誰かを愛して、そのひとの子どもを授かったりもできます。そして十分に時間がたてば、おだやかで苦しみのない、自然な消滅が訪れます」
彼女は深く息を吸いこむ。ゆっくりと瞼を持ちあげて、空を見上げる。
「けれど、その人生の間じゅうずっと、あいつは世界の一番高いところで、倒されずにいる。あいつを倒すことを諦めた私を、たとえ私が日常の中でそれを忘れても、あいつは覚えていて、無感情に、じっと私を見下ろしているんです」
彼女は彼がいるほうへ手を伸ばし、しばらくそのままでいた。やがて、ふっ、と糸が切れたように手を下ろして、小さく首を振る。
「かわいそう」
それは誰に向けた言葉だったのか、僕にはわからない。
彼女自身か、敵である彼か、あるいは傍観者きどりの僕か。
熱くて、寝苦しい夜だった。
痛みをともなう喉の渇きで目が覚めて、目をこすると、涙が出た。
僕は現実に戻ってきた。
彼女は夢の中のひと。もう二度と会うことのないひと。そして自分で自分を殺めたひと。
それらはよく似た存在で、僕はいつも、覚えておかなくちゃ、書き留めておかなくちゃって、よくわからない使命感にかられる。
彼女について知っていることなんてほとんどないのに、まるで古い友人みたいに、物語る。
あなたは忘れてくれと望むかもしれない。本心は逆かもしれない。けど、本当のことをいえば、あなたの気持ちなんてどうでもよくて、ただ僕がそうしたい気分だというだけ。
いつか僕が自殺したときに、ただ、あなたに覚えていてほしいだけ。
現実にするつもりもないのに、中学生みたいな甘やかな感傷で、僕は彼女に憧れる。
冷たい水が沁みわたり、夢の名残も色合いも、きれいさっぱり流される。
覚えていてと、忘れたくないは、同じもの。
眠れない夜明けの、よくある追想。
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