チョコレートを掲げて生きる 朝ドラ「虎に翼」感想文(第11週)
過去に傷つけてきたもの
「自分にその責任はないと?それならそう無責任に、娘の口を塞ごうとしないで頂戴」
桂場等一郎がはるさんにケンカ腰の言葉をぶつけられたのは昭和6年(1931)の年末だった。そこから17年。彼の中にこの言葉は残っていただろうか。
「干渉?そんなもんじゃない」「司法の独立の意義もわからぬクソバカどもが」「へいこらへいこら。ふざけるな!」
昭和11年(1936)に力強く切った啖呵があったけれど、その後泥沼の戦争に突き進む日本で成人男子として生きた桂場だ。私には何度読んでも理解できない国体という何かを守るために人命含めたこの国のすべてのリソースが投入され、そしてその根拠法たる法律が次々と制定された。彼はどんな思いでそれを眺めていただろう。
判事は兵隊に取られにくい。同じ時代を生きても、弁護士になったか判事になったかで運命が異なったことを、私はこのドラマで初めて知った。やりたくなくても戦場で人を殺さなければならなかった大勢の人がいて、骨すらわからない形で死んだ大勢の人がいた。戦場に行かずに済んでも、無理のある法律とわかっていながら人を裁かなければならなかったし、その判決によって間接的に命を落とした人もいたかもしれない。潔癖な彼の胸中に「自分に責任はないと?」という自問がどれだけ過っただろうかと考えるけど、正直自分の想像の範囲を超えている。
正論は「純度が高ければ高いほど威力を発揮する」と寅子に告げた桂場。純度の高い正論ってなんだろう。心の中で何度も何度も練り上げる、自問の先にもあるものなのかもしれないな、とも思う。
現在進行形で傷つけるもの
「花岡さんの分も頑張らないとね」
「人々を裁かなければならないものとして、悩み抜いてあの決断を」
「気づいていたら何か変わったかもしれないのに」
寅子の口から出たそれらの言葉は決して嘘じゃないし正論なのに、めちゃくちゃ軽々しく聞こえてしまったのはなんでだろう。そこに桂場のいう「不純物」はなかっただろうか。見得や詭弁、救われたい、許されたいという気持ち、楽になりたいという気持ちは微塵もなかっただろうか。
桂場の部屋にかかっていたのは「人事課長室」の文字だった。
配置転換を命令出来た人間と、そばにいた家族。寅子が「気づいていたら何か変わったかもしれないのに」という言葉をぶつけた先にいたのは、本当に何かが出来たかもしれない立場の人間たちだった。まるで、大怪我をしている人間に対して自分だって辛いのだと訴え、無理やり救わせてしまったことに気づかない、ような…ああ、そんなつもりもなく、人は人を傷つけるものだよ、と思ったわたし。
「救われた気持ちの寅子です」とナレーションが入ったとき、十年落としの後悔が起こる現場を目撃した気分になった。寅子はまだ、まったくその傷つけたものに気づかない。よくある話だ。本当によくある話だ。
やらかした何かに気づくのはいつだろう。眠る瞬間に思い出し、後悔で布団を転げまわる夜が来るだろう。歩いているとき、不意に頭に過り、大声で謝り倒す日が来るだろう。生きていればいろいろあるし、いろいろやる。でも、そのやらかしを忌避するために何もしない、それは絶対に違う。私たちはきっと、他人を傷つける自分の弱さを、傲慢を、生きる前提として引き受けねばならないのだ。大事なのは多分、その上でどう行動するか、なんだろう。
チョコレートを掲げること
子どもと大人の違いって何だろう。未来だけじゃなく、抱えた過去と後悔。どうすればよかったの?どうすればいいの?過去と未来、両方を抱えて生きなければならないのが、多分、大人だ。
戦争。人の死。差別。偏見。どうすればよかったの?どうすればいいの?時にその問いかけは、大きすぎて背負いきれない。でも「だったら黙れ」という多岐川の言葉が単に口を塞いだものならば、それは果たして正解なんだろうか?立ち往生したままの思考停止を意味しないか。アイドリングし続けることの的外れ、みてみぬふりの卑怯について考えてしまう。
昭和23年大晦日。家庭裁判所の壁に大きなチョコレートの絵を掲げたそれぞれの大人たちの中に、それぞれの後悔が、無責任との葛藤が、逃げた弱さが、気づかない傲慢があっただろう。
描かれた手のひらの上のチョコレートは、何も知らない人が見たらそれはまさに文字通り「絵に描いた餅」。本当に食べられなければ意味がないと笑われてしまうかもしれない。
でも疲れた顔で掲げた絵を眺める人たちは、皆がこの絵の意味を知っていた。チョコレートをもたらした人ともたらされたもの。実際の腹を満たさないからといって、実際に救われた心はなかったことにはならない。この絵が描かれた背景をなかったことにしてはならない。
そして大人たちがチョコレートを奪った過去を、現在進行形で奪っている現実を忘れてはならない。
果たせなかった責任
傷つけた気持ち
気づかなかった慢心
目をそらしたいすべてを抱えたうえで、大人はその責任として、なおチョコレートを手に乗せる未来を約束しなければならない。そしていつでも目に留まるところに掲げ続けなければ私達はきっと忘れ、なかったことにしてしまう。メッセージは、物語を超えて、今ココに刺さる。
ひとりじゃない
「ひとりじゃ心細い。君たちに傍で支えてもらいたいんだ。子供たちの幸せのために」と頼んだ多岐川の言葉を聞いて、ああ、これはホーナーさんの言葉と同じじゃないかと気づいた。
Let us work together for the sake of happiness our children
「全部父さんが何とかする」から「一緒に働こう」へ。直明が熱をいれるBBS運動(Big Brothers and Sisters Movement)も同じだった。トップダウンからネットワークへ。ドラマからもたらされるシグナルは形を変え、言葉を変え、波のように何度も届く。
今できることをやろう。一緒にやろう。私たちはひとりじゃない。「手を取り合えるのは本当に素敵な事です。」
かつて、寅子に「お前はひとりじゃない」と言ってくれたひとがいた。一度は離してしまった、その手。彼女と、また手を取り合える未来をみたいって願っている。