選べるだけじゃダメで 朝ドラ「虎に翼」感想文(第21週)

せん‐たく【選択・撰択】

〘 名詞 〙
① ( ━する ) えらび出すこと。二つ以上のものから目的にかなうと判断したものを取ること。
② 「せんたくかもく(選択科目)」の略。

精選版 日本国語大辞典

「結婚したけりゃすればいい。子供が産みたきゃ産めばいい。勝手にしろ」
かつて寅子に、よねさんはそう言った。
「好きにしなさい。私は2人が選んだ決断を応援します。」
高瀬さんと小野さん、友情婚を選択するふたりに、寅子はそう言った。

選択していい、という同じ意味を持つ言葉が、全く違う空気を連れてくる。

ところで昭和生まれの私は、内縁という言葉を大人たちがどんなニュアンスで使ってたか知ってる。それはルールの外側の存在であり、表にできないもので、社会から承認されない関係だと言外に教えられてきたものだった。

「私、佐田寅子は、星航一と内縁関係にあり…」
家族の拍手の中、寅ちゃんは航一さんと「夫婦のようなもの」になった。
竹もとで声が枯れるほど喋った寅子たちの人前式は仲間たちの承認を得て明るく終わったけれど、外に一歩出たらどうなるだろう。航一さんがバッタリ倒れても、寅子には手術の同意ができない。手にした遺言書を理由に、病院を説得している間に命が危ない。

「自分が何者かを誰かに分かってもらう必要もない」と遠藤さんはいい、「そうそう、俺達がお互いを分かっていれば」と秋田さんが応じた。でも

弱いのだ。選べるだけじゃダメなのだ。好きにしろだけでは好きにできないのだ。あなたたちを応援する、という裏書がいるのだ。
承認がほしい。社会に生きる私たちの選択は、社会からの承認を必要とする。

すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

日本国憲法第13条

「寅ちゃんができるのは、寅ちゃんが好きに生きることです。」
無我夢中に走り出し、ふと後ろを振り返ると、遠くで手を振る人がいる。笑いかける仲間がいる。
だから安心して、また前を向くことができる。社会からの承認。それを、法というのだろう。

令和6年8月の終わり、第21週の底辺を流れる作り手の「祈り」の重さを考える。
「同じ姓を名乗るか、それぞれの姓を名乗るかは申立人の夫婦間で自由に決定するべきである。それは憲法により保障された権利のはずである」

こうあれかし、という祈りの言葉。「の、はずである」という歯切れの悪い言葉は「法的効力はないが、祝いの言葉とする。」轟の柔らかく優しい声でコーティングされたけれども、法服のようなものを着た、判決のようなものがなされた、祝いの場所の扉の向こう、世間という名の海は果てしなく広く、寄る辺がない。

「裁判官が判決文や令状に旧姓を使うことが認められるのは、平成29年(2017)のことです。」ドラマの中の時間は昭和30年(1955)。そこまで62年かかった。
夫婦が別々の姓を選択できる制度についてのナレーションは、まだ入らない。まだ、入らない。


「優未ちゃんは、女のひとになるためになにか頑張ったことってある?」
「え?いや…ない。」
「私は自分で望んで手術を受けた。今の自分が好きよ。でも、頑張ったり理由を考えたり、説明したりしなきゃ自分が認められないことがずっと苦しいの。」
「僕らだけ、いつも理由が求められる。いつから異性が好きなのか、なんて質問絶対されないのに。」

このやり取りについてSNSではかなり話題になったけれど、それらのご意見を読みながら少し前、ラジオ番組で聴いた話を思い出していた。
それは六本木のゲイバーのママが語る戦時中の話で、ゲイである仲間が兵士たちに“慰安”を提供する立場になったという話だった。「軍隊入ってオトコを喰ったって(その彼が)話していたわ」「列をなしたって」鉄板ネタの笑い話として語られるそれは、聞いている私を絶句させた。

”特定の属性”が、人ではなく道具にされることがある。
時に献上され、上納され、消費され、機能を利用される。特別な人間のやらかす特別な暴力ではなく、人間の集団の中で、さも当然の仕組みとなって、「コイツラはそう扱ってもいい」というルールにされる。構造的な差別だ。

おんなのひとになるための努力をしたか。
その問いかけが、そんな構造的差別の中で、道具であるための努力をしたか、という問いならば、それは確かにグロテスクだろう。

だがこの問いかけはそうではなくて、社会的承認の話であるように思えるのに…そのことはその後に続く言葉で明らか…に思えるのに、問いかけをなじり、優未ちゃんのために怒り、泣く人が、たくさんいた。
それがどういう理由によるものか、全部じゃないかもしれないけれど、一つの大きな理由の想像がつく、それが苦しい。

イマココのテレビの前にある「女のひとであることはそれ自体が道具として消費されうることだ」という共通認識。そしてそれが的外れといえない現実。SNSで、ネットで、学校で、職場で、塾で、電車で、駅で、本屋のPOPで。女の子であることが呪いにしかならないような、その尊厳を踏みつけ、尊重のかけらもないような扱いをしてはばからない社会がある。「コイツラはそう扱っていい」という構造が、本来混ざらない話を容易に混ぜてしまったんじゃないか。

「自分に責任はないと?」ドラマの中のセリフが脳内に響く中、SNSのご意見を読んで考え込んでいる。

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