「9.11からCOVID-19のNYC - あの日のセントラルパークの風景」
非日常の中の日常が、あまりにも非日常だった
2001年9月11日。ニューヨークのマンハッタン南端に建っていたワールドトレードセンタービル(通称ツインタワー)に旅客機が衝突した。
事故ではなく、人の手によって故意に、2つのビルにそれぞれ1機ずつ衝突し、激しく炎上した。
あの日、僕はマンハッタンにいた。
そして、ワールドトレードセンタービルで友人と会う約束をしていた。
前日歩き回った疲れからか寝坊してしまい、慌てて起きた僕は、半分寝ぼけた状態で歯をみがきながらホテルのテレビで黒煙立ち昇るビルを見つめていた。
「あれ、どこかでこんな映画を見たことあるな」と、ぼんやりした記憶を辿ろうとしていたが、画面右上には「LIVE」の文字。状況が掴めないまま見つめていたその瞬間2機目がビルに衝突した。
僕はマンハッタンの北西に位置するアッパー・ウエストサイドの安宿に泊まっていた。そのビルの真下、そしてあらゆる通りを北から南に見たこともない数の緊急車両が激しくサイレンを鳴らしながら一斉に向かって行くのを見て、やっとそれが現実なんだと理解した。
アッパー・ウエストサイドの東には広大なセントラルパークが広がる。
ニューヨーク、いやアメリカ全体が混乱に陥り、飛行機は軒並み欠航、街には厳しい交通規制が敷かれた状態の翌日、行く当てもないのでセントラルパークを訪れた。
そこで見た光景は今でも強い記憶として残っている。
マンハッタンが混乱と悲しみに溢れる中(とにかく泣いている人が多かった)、セントラルパークにはこれまで通りランニングや散歩、昼寝をする人たちの"平和な日常"がそのまま広がっていた。
非日常の中の日常の光景。それがあまりにも不思議な風景で、公園の中と外とが、まるで違う世界のようだった。
あの非常事態の中、公園でこれまで通り過ごす人を「けしからん」と思う人もいるだろう。ただ、そんな中でセントラルパークがあったからこそ平穏を保てた人たちがいた、ということでもあって、普段は当たり前にあるその公園がNYの人々にとっていかに大きな存在だったかを感じた瞬間だった。
島田智里さんに聞いてみた。
あの時感じた、ニューヨークの人たちと公園との関係は何だったのだろう?
そして今COVID-19という新たな非日常の中で公園はどのような存在なのか。
ニューヨーク市公園局で働く島田智里さんに話を聞いた。(聞き手:渡辺、三谷)
公園とは何か?
渡辺:まずそもそも「公園」ってなに?、という部分からお話したいのですが、僕は「〇〇パーク」という名前が付いているから公園ではなく、ちょっと概念的になりますが、公園には3つの要素があってほしいと思っています。
1つは「オープンで、みんなに開かれている」、2つ目は「未知に出会える」、最後に「旅を感じる」。その要素がある場所が公園と言えるんじゃないかと。
島田:なるほど。一般市民にとって公園がどういう存在なのかというのは周りの環境に影響されると思うんですね。例えば繁華街にあるのか、住宅街なのか、そうではなく自然エリアの中にあるのかで利用者の捉え方が変わると思います。例えば今回コロナで、有名なBryant Parkというマンハッタンの商業エリアにある公園と、Hunter's Point South Parkというクィーンズのウォーターフロント沿いにある住宅エリアの公園。普段は全く同じように賑わっていたのですが、コロナでオフィス閉鎖や商業活動が止まった中ではBryant Parkは極端に人が少なくて、住宅街の地元公園には人が密集している。こういう非日常になった時に、これまで見えてなかった公園の要素が見えてくると思います。
公園単体が持っている空間の良さもありますが、周りにある地域環境や関係施設の影響を受けることもあるので、公園にバラエティがあり、それをユーザーがどう捉えて選択するかが大きいと思いますね。
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渡辺:公園そのものだけではなく、周りの影響で公園の捉え方が変わるという視点がおもしろいと思ったのですが、もう少し具体的に教えてもらえますか?
島田:例えば、Bryant Parkであれば公園に行ったあと友達に会って食事をするとか、オフィスの帰りに立ち寄れる気軽さなど、そういう"ついで感"がある場所ですし、今回のコロナは特殊な状況下ですが、家に引きこもって小さい椅子に座っている人にとってはBryant Parkの簡易ベンチよりも、何もなくても芝生があって寝っ転がれるとか、自宅から自転車で行けて、しかも自転車が盗られない安心な場所であるか(笑)とか、そういうことを考慮して行く公園を選んだ人も多いと思います。
あとは、小さな地元公園であっても、そこに行くと近所の人に出会えるかもしれないといった社会的な要素も。公園自体は常に変わらないのに、物理的なものもあればメンタル的なものまで、受け止め方が利用者の環境によって大きく変わるんじゃないかと思います。
三谷:そうですよね。私も今回、同じ公園でも全く感じ方が違ったんですよね。子供が元気に遊んでいる光景を見て、ホッとしている自分に気がつきました。
島田:ある意味、今まであった社会的な”当たり前”がもぎ取られて、人々が同じ条件下に置かれた中で私たちにとっての公園とは何かが見えてきている気がします。
"ニューヨーカー"と公園との距離感
渡辺:ニューヨークの市民と公園の関係を少し歴史的な背景も含めて伺えますか?
島田:ニューヨーク市は、マンハッタン、ブルックリン、クィーンズ、ブロンクス、スタテンアイランドの5つの行政区で成り立っています。ビーチやレクリエーションセンターなどの公園施設も含めると、公園局の所轄地は全部で約4,500ヶ所あり、そこにはアーバンファーム的な役割もするコミュニティガーデン、屋上緑化、そして自然公園(NY市の約10%は自然エリア)もあります。
こんなバリエーションの多い公園地をうまく管理運営できている理由の1つに、市民参加が盛んなことがあると思います。行政と非営利団体などとのパートナーシップは古くは1990年代ぐらいからありますが、マイケル・ブルームバーグ前市長が2007年に「100万本の植樹プログラム」(MillionTreesNYC)という緑のまちづくりに市民参加を呼びかけたことでそれまで以上に拡大したと思います。行政だけでなく中間の支援団体との強い協力体制があることで、柔軟な公園運営が可能になっていますね。
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三谷:NEWPARKは郊外の公園を良くしたい、という目的も持っているのですが、マンハッタンなど中心部ではなくもう少し郊外の公園についてはどうですか?
島田:公園局はここ5年ぐらいCommunity Parks Initiativeという新しいプロジェクトを行ってきました。これまで設備投資が十分ではなかったり、低所得層のエリア、近年人口増加が大きい地域などを中心に、公園を作ったりリノベーションをしていて、公園を設計する前から市民参加を呼びかけて、市民が本当に欲しいものを作ることに努めています。
ただ、今回のコロナ感染対策でニューヨーク市も経済的に不安定な状況もあり、今後、よりパートナー団体や市民の役割のステップアップが求められると思います。
渡辺:このコロナでニューヨークの人や島田さん自身の行動って変わりましたか?
島田:これまで毎日乗っていた電車に全く乗らなくなりましたね。可能な限り歩いて行くか、自転車に乗って公園に行きますが、歩いたり自転車に乗る距離自体はコロナ前に比べて増えていると思います。あと、電車やバスと同じ運賃で、近年路線も増加したフェリーに乗るようになりました。屋外空間もあって安心感があり、フェリー乗り場の近くにHunters Point South ParkやBrooklyn Bridge Parkのような良い公園があったりするので。移動手段が変わったことで自分が行くところも変わったように思います。
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渡辺:島田さんはデータ分析がご専門ですよね。コロナ前後で行動パターンに変化が見られたらおもしろそうですね。
島田:個人情報の問題で、個人の行動パターンを調べるのは難しいのであくまで推測ですが、コロナ前より公園に滞在する時間が長くなった人が増えたのではないかと思います。イベントもなく、公園内のお店やプログラムもない中で滞在時間が延びているということは、皆さんの公共空間の使い方が空間重視になっているということなんですよね。これがどういうことかを掘り下げてみるのもおもしろいと思います。
三谷:今までは明確な目的を持って公園に行っていたのが、生活空間の延長になったということなんでしょうか?
島田:そうですね。自分の家の庭化してるんでしょうね。それが根本にあって、その上でプログラムや店舗などがあるのが理想で、それが逆になると、プログラムなどの特定の目的がなければ公園に行かなくなってしまう。
三谷:まさしく庭ですね。
島田:コロナ前は、きれいでベンチがたくさんあって飲み物が買えてという公園に人が集中しがちだったのが、今はたぶんベンチがなければ地べたに座わるし、自分で持ち運び用の椅子を持ってくるし、ユーザー側がクリエイティブになっている気がしますね。今までは受動的だったのが、自分が使いたい、楽しむために何ができるかを積極的に考えるようになった気がします。
渡辺:なるほど。いま大体のことが技術で叶えられしまう時代ですが、自由な状態ではなく、何か制限があってそれを乗り越えようとするときにアイデアやクリエイティビティが発揮されやすいというのもあって、今の話はそこに通じる気がします。
島田:国民性や文化の影響もあると思いますが、クリエイティビティには2パターンあると思うんです。アート的な逸脱した美、刺激、おもしろさと、問題解決のためのソリューションとしてのクリエイティビティ。その2つが合わされば更に質の高いものが生まれるのではないかと。今の状況ではどちらかと言うとソリューションが多くて、道路や歩道を利用して公共空間や飲食空間を拡大するオープンストリートやオープンレストランは今だけの短期的なソリューションかもしれないけど、今後、長期的なものになるかもしれない。そこにもっとアート的なものが加わってくると、すごいパワーをまちに提供できると思うんですよね。
三谷:確かに。文化になってくると言うか。
島田:新しいアイデンティティになってくる。
セントラルパークは、"My Park"?
渡辺:これは聞いた話なのですが、J-WAVEのパーソナリティをやっている方がニューヨークでインタビューをしたら、お年寄りから若い人までみんなセントラルパークのことを「My Park」と言っていたことにすごくビックリしたそうなんです。「あ、自分の公園って言ってしまえるぐらいの関係値や存在の場所って日本にあるっけ?自分に置き換えた時にMy Parkと思いながら過ごしている公園ってないなぁ」と思ったそうなんですよね。
それを聞いた時に、あ、やっぱりそうなんだ、と思ったんです。9.11の時に僕が見たセントラルパークの光景は普段からMy Parkと思っているからこそあった風景だったんだなと。この公園との距離感って実際に住んでいる島田さんはどう思いますか?
島田:やっぱり"自分の庭"感覚なんですよね。もちろんわざわざ自宅を出てそこに足を運んでいるのですが、実際にはその感覚というより、非常事態でも家のベランダや自分の生活空間で過ごしている感覚に近いんだと思います。ただ普段からそういう感覚を持っている公園でなければその気持ちは起こらないので、元々のその人にとっての公園の存在感や関係値は絶対出てきます。
ちなみに、「It's my park」は、数年続いている市民参加型のボランティアイベントのタイトルにもなっていますよ。
渡辺:へぇ、そういう啓蒙もあるんですね。
島田:ただ純粋に「It's my park」の感覚なんだと思います。「It's my neighborhood」とか私も良く言いますけど、ここ私の(住んでいる)エリアなんだよとか、感覚的に自分がよく使っている、知っているということをよく認識しているから出てくる感性なのかも。
私のもの=Mineと言ってるわけではないんですよ。日本だとそれがMine(私のもの!)という風に受け取られることもあるかもしれませんが。
三谷:あーー、そうですね。よく言われる私物化ってやつですね。
島田:ニューヨークでも意識的に私物化している人もいますが、多くの人は、「そこよく知ってるよ」ぐらいの感覚で思っていて、公園に限らず「It's my street」とかもよく聞きます。その感覚が、恐らく市民参加や地域活動に関わる人の多さにもつながっているんじゃないかな。
三谷:そういうものはどうやって醸成されているんですかね?
島田:たぶん、「My 〇〇」が白黒じゃないのだと思います。これはあなた、これは私というラインが公共空間において曖昧なんじゃないかな。
公共の公園なのに「うちのとこの公園くる?」とか誘う人がいたり(笑)
渡辺・三谷:いいなーその感じ!。アメリカ人っぽいなぁ(笑)
島田:そういった意識があるから、荒廃したりすると悲しかったり、良くするために何かしようとしたりするんでしょうね。そういう人が集まるとMy ParkがOur Parkになっていく。
渡辺:所有というよりも自分ごと化されてるんでしょうね。その場所が自分の一部になってきてるというか。さっき言っていた内と外の範囲が少し違うというか。
島田:でも日本人にも近い感覚があると思いますよ。公園だけではなくって、自分がよく通る道やよく行くカフェなど、控えめな文化なので公に口に出さないだけでこういった感覚は持っているはず。
渡辺:なるほど、確かにカフェはわかりやすいですね。個人的にはスターバックスがThird Placeという自宅、学校や職場の次の場所としてのカフェを一生懸命啓蒙したことで、居場所が広がった感覚があります。
島田:カフェにそういう感覚があるのは、お金を払って相応のサービスを受けているから満足感を口に出しやすいと思うんですよ。でもそれは公共空間でも同じで、利用する回数が増えたり、得られるサービスの質が高いと気がつけば同じように思うはず。
白黒が曖昧なのは日本と欧米どっち?
渡辺:もう1つ概念的なところに切り込みたくなっちゃったんですが、先ほどアメリカの人は白黒が曖昧だという話があったと思います。僕も曖昧さやグラデーションが可能性を広げると思って生きてきた人間なのですが、おそらく宗教の正悪みたいなところも影響して、一般的には欧米は白黒ハッキリしていて、日本は曖昧と言われることが多いと思いますが、さっきの話は逆で、それってどう思いますか?
島田:それは意識の問題とシステムの問題ですよね。システムでいうと欧米はルールや境界がハッキリしていて、PrivateなのかPubulicなのか、所有もハッキリしている。だから使われていない空き地を地域利用するなど日本はより活発で、その点面白いと思います。
意識の面でいうと、「この団体に所属している」という人だけでなく「この団体に協力している・していた」という人が混在できる曖昧さを許容する雰囲気は欧米の方があると思います。日本はそのラインがはっきりしている。
全体的な仕組みとしては、日本は曖昧さをうまく利用した文化がいい意味で地域づくりに浸透している思います。
渡辺:なるほどなるほど。
島田:日本では本当はやっていいのか分からないですが公園でバーベキューをしている人っているじゃないですか(笑)それがニューヨークでは禁止は禁止。それは守る。でもダメなら家から焼いた肉持ってくるさ、と思うのがアメリカ。引くラインが違う。
渡辺:それ、おもしろいなぁ。逆にシステム的には日本の方が曖昧さがあるってことだとすると、意識の部分にもう少し曖昧さが加わった時にどう変わるか見たいですね。つまりやれることはもっと多いのかもしれないってことですよね?
島田:そうですね。可能性としては、人命や安全に関わらなければ日本ではやり方次第でやれる事が本当に沢山あると思います。ニューヨークだと公園に限らず公共の場で飲酒したら罰金・刑務所なので日本の花見文化のようなものがない。あとは、ルールや決まりへの共通認識の持ち方が大事ですね。今回のコロナでも、日本では閉じられていない公園で遊んでいる子供や騒音に苦情の電話をした人がいたと聞きました。それはコロナ禍での公園利用に対して明確なルールが市民に伝わっていないから、何が苦情にあたるかの理解に差が出てしまったのでは。
三谷:確かに。認識を揃えるような住人同士のコミュニケーションもないですしね。
島田:暗黙のルールだから知っているだろう、は危険ですね。背景や育った環境が違うと価値観が異なることもあるので、当たり前と想定しダメと伝えるのではなく、このまちで何ができ、できないのか、それがなぜかをきちんと言葉にして、みんなで共通認識を持つことが大事だと思います。
渡辺:結構気づきがありますね。日本の公園だけじゃないと思いますが、公園に禁止看板が増えていくことを三谷さんも嘆いていたけど、禁止令とルールはニアリーイコールではなくじつは違うっていうところは気づきでしたね。ルールがあることでいい方向に向かうこともあるってことですよね?
島田:禁止令は状況によって必要ですが、いつまでもダメなのではなく、その理由が理解され、遵守されて禁止する必要がなくなれば状況が変わる可能性がある、または必要に応じて対応するといった意図がある場合、そこまで伝える必要があると思います。コロナ禍で児童公園の開放、閉鎖が必要に応じて行われたように。
今後の公園の可能性について
渡辺:そろそろお時間なので、最後に島田さんが考える今後の公園の未来や可能性について教えていただけますか?
島田:今回のコロナでアメリカも日本もそうだと思いますが、経済的にこれから厳しい時代に入っていくと思います。その中でクリエイティビティの活用ですよね。個人レベルから大企業、行政レベルまで様々なクリエィティブな発想や案が生まれ、それらが連携して、実用化・応用化されることで様々な困難に立ち向かっていけると思います。公園に関しては、利用者はいなくならないと思うので、管理側は使い方の工夫を許容する。アイデアを生む側は公共空間の目的を理解して協力していく。それから公園業者のみに限らず、プランナー、エンジニア、デザイナーだったり、ソーシャルジャスティスを教育する人や福祉、それを支援する人などみんなが連携をしていくことで、大きな相乗効果が得られるのではないか。特に財政面でチャレンジな時代を目前に、新しい政策や規制への対応が求められる中でみんなが手を繋がないとこれまでは大丈夫だったことが回らなくなる。私たち公園関係者もしっかりと色々な意見を聞いて、学び、活かしていくことが大切だと思います。
個人的な意見を含め、好き勝手話してきましたがこれ大丈夫ですか?(笑)
渡辺:大丈夫です!大丈夫です!(笑)。9.11の思い出に絡めながらそこからもう少し公園の未来と人との関係を深掘りたいなと思っていたので、今回の島田さんのアイデアも入れながら専門知識のインプットというよりは気づきや何かアウトプットに繋がるヒントになるようにまとめてみたいと思います。
島田:9.11はアメリカ同時多発テロでしたが、今年は世界的に拡大したBlack Lives Matterという国内での人種差別による社会問題が浮き彫りになりました。公共空間の今後の在り方もそうですが、国の中、まちの中での生き方、そして自分の存在そのものをみんなが考えている時代だと思います。「人としてまちにどう存在し、どう生きるか」という大きなテーマだと思うんですよね。どの国籍や性別、老若男女関わらず、同じ空間で同じリソースを共有して、誰もが自分たちの快適さやしあわせを求める、そんな当たり前のことを公言するのが難しかった時代からの変革を求める機運が出てきている。同様に、誰もが使える公共空間として、公園自体もこれから更なる向上につながっていくんだと思います。
まちの構成には色々なものが関連しています。苦境の中でもまちが強くなるにはやっぱりその中に住んでる人たちの強さがベースになるので、そういう人たちをサポートする公共空間の1つが公園という存在じゃないかなと思います。
渡辺:公園はあくまでまちの1つ、というのは今日すごくいいメッセージだと思いました。逆に僕らは公園にフォーカスしすぎていたのかもしれないなと。実際確かに可能性はすごくあるけど、周りの環境も含めて色んなものの1つ、やっぱりベースは人ですよね。
島田:でも、お二人が日本でいま公園にフォーカスするのはすごく良いと思うんですよ。ニューヨークは、90年代に入ってそれまで荒廃していた公園を改善する取り組みがあって今の賑わいがあるんですね。日本は公園に対してこれまで続いてきた認識をまだ持っている人もいる中で、それをオープンにしていくきっかけになる、NEWPARKはいい意味でエデュケーションになるんじゃないかと思います。みんながすでに話していることをまとめるのではなくて、みんなが漠然と思っているけど口に出すことがないことをあえて口に出して発信していくというのが、みなさんにとってeye-openingになると思います。
渡辺・三谷:最後にステキな言葉をいただきありがとうございます。
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