私はあなたの欲を満たす安価で手軽な生肉ではないしあなたも私の理想を叶える偶像ではない
私は困っている!怒っている!悲しい!悔しい!
私には尊敬している人たちがいる。
最近気づいたんだ。その人たちに私が向ける尊敬のまなざしには「こうあってほしい」「こうだろう」といった思い込みや押し付けの願望が含まれていたんだと。
本当に申し訳ない。
そのまなざしを向けられた人々は、それに応えなければならないと思ったり、きっとうんざりしているはずだ。反省している。
その人たちは常日頃から、素の自分と、社会や自分が創造した自分像の狭間で揺れ動き彷徨い苦悩しているのかもしれない。
私には到底理解の及ばない境地だ。
ならば私は自分の目ん玉をどうコントロールすることができるのだろう。
まず、人を多面的に見ようとすること。
自分がその人に関して知っているのは一側面であり、点であり、その点を繋いでいる線がどこから来て、どこへいくのか、その人自身にもわからないのに、私が決めつけてジャッジするなんて、なんてナンセンスなんだろう。吐き気がする。
そして、その人たちに提案したいこと。それは無防備で無反応である自分の状態を受け入れること。きっと、無理なのかも知れない。ずっと限界突破の馬力で周囲の、何より自分からの期待に応えるためには、素の自分を受け入れ、解放するなんて、許せないかも知れない。だけど、自分自身で裸の自分を包含できなければ、他に誰がしてくれるというのだろう。自分が可哀想じゃないか、と、素だけで生きてきた私は無責任ながら思うのだ。
そして、
私の場合は、素の自分と、「若い女」としてしか見られていない自分の間で葛藤している。
私は尊敬されているどころか、その真逆で、スーパーで大量に陳列されている代替可能な賞味期限付きの生肉のようにしか見られていないと感じることが増えてきた。
(スーパーに陳列されている鶏肉には、鶏の人生や鳥を育てた人、捌いた人、運送した人、たくさんの命、時間が込められている。例として利用させていただくことに、申し訳なさがあるけれど、私がここで問題視しているのは鶏肉を受け取る生活者側、消費者側のスタンスなのである。)
パッケージに貼られたラベルに書いてあるのは産地と賞味期限と部位くらいだっけ。口から手が出るほどお腹が空いているわけでもなく、今夜は鳥にしよっかなくらいの気分の人の手に生肉はとられていく。
私は隠岐の島でトリを絞めて食べたことがある。それは、スーパーとは全く違った。
その日、目の前で走り回っていたトリは、玲香さんが親鳥から育ててきて、そのトリさんから雛を返して、今日まで一緒に暮らしてきて、当日に至ったそうだ。
玲香さんはカレーが大好きで、カレーの材料を全部自分で手作りしようというわけだ。米も、野菜も、肉も、卵も。そんな想いの延長線上で私はトリをいただくのである。
トリの両足を持ち上げて逆さにして、出血量をなるべく減らす工夫として、頭に血を昇らせてから包丁を首に当て、横に動かして、切り口から血を抜いて。岩の上に鳥を寝かせてから毛をむしり、剥いで、そこからお腹に包丁を入れて、全部綺麗に取り除き、分けていく。そして、一つも余すことなく、全部、有り難く味わって、いただく。
玲香さんは笑顔だった。「可哀想」なんて1ミリも思っていなかったんだと思う。そこにはトリへの愛や感謝があったんだと思う。
そうやって、トリの生い立ちや、トリが愛着を持って育まれてきたことを知って、有り難くいただくのと、産地や日付だけ見て、その背景を想像する間も無く手にしようとするのでは、全く違うんだよね。
きっと、玲香さんならば、食べ物は、生き物であることをわかってるし、天候や、土の変化が関係して、時には作物が都合よく手に入らないこともあるのかも知れないし、それをも、理解しているだろう。
しかし、
トリが生きてきた環境を知らない人々、知ろうとしない人々は、手に入るのが当たり前で、手に入らなかったときは、イライラするのかもしれない。その人の機嫌を損ねたのは誰なんだろう。安価で手軽にいつでも手に入ることが当たり前、という前提は、命をいただくことの意味を履き違えているのではないか。
なんて無礼な!
私に近寄ってくる大人の中には、そんな人がいる。とっても悲しい。
私は手頃さ、新鮮さ、美味さでしか、あなたの目に留まらないのでしょうか。
私の価値はそれだけなのでしょうか。あなたの欲に応えられなければ用無しなのでしょうか。土壌や、好きな空間や、私が何から成り立っているのかとか、興味ないのなら、別にそれ、私じゃなくてもいいよね。
スーパーの生肉のラベルを眺めるようにしか、人を、ものを、生き物を、見ることができないのって、寂しい。愛や、感謝の念を忘却してるのでは。
私の価値を、従順で、ピュアで、若い、女で、尻尾を振ってついてくる、歩く生肉と、勘違いされては困るのです。一方で誤解を招いてしまう私はもっと己の人間性を磨かねばならない。
私はただ、消費し、消費される関係性ではなく、若い女としてではなく、小林花菜としてあなたとあなたと、あなたとも、一緒にいたいだけなのです。
人に接するのも、ものを売るのも、自分と向き合うときも、愛にこそ本質があり、愛がないほど空虚で無意味なものはない。そう思う。
気付かぬうちに、金や、性や、名誉や、周りに振り回され、大切な前提を見失ったり、履き違えたりして、愛や感謝を置き去りにしてしまう。私は絶対にそうしたくない。
私は人をラベリングしたくないし、人にされたくもない。意識的に、お互いのラベルを剥がしながら、鎧を脱ぎながら一人一人と向き合っていきたい。誰一人諦めない。
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