道草の家のWSマガジン - 2024年8月号
麻績日記「蓋をした私」 - なつめ
校長先生に東京に戻ることをお伝えした日の翌日、お世話になった先生方にも東京に戻ることを伝えることも勇気がいることだった。
「え! 急ですね。ざ、残念です」
と先生方に言われ、誰よりも残念な気持ちでいる私は、
「はい、そうなんです。本当に、だれよりも残念なのですが」
と、答え、もうだれに何を言われても私は動じない、揺るがない、そして息子が元気になるために、ここを去ると決めたのだ、と自分に言い聞かせ、東京に戻ることだけをただ伝えたのだった。それはまるで、悲しみの海の底に落ちた「私」が、海底にあった箱に無理矢理「私」を閉じ込め、もう何の感情も出てこないように蓋をした状態にしなければできないことだった。こんなにも早く東京に戻ることになるなんて、自分が一番信じられない。この急展開に自分自身もついていけない。それなのに、それを自分で自ら言っている私は、なんて不自然な人間なのだろう。心の内と言動と行動が大幅にズレていた私は、その日、最初で最後となる卒業式を、なんとか支援員として最後まで冷静に落ち着いてやり切ることで精一杯だった。
卒業式と離任式は同じ日にあった。卒業式の後半で、私は校歌の伴奏をピアノで弾くことになっていた。卒業証書授与や子どもたちの呼びかけなども無事に終わり、いよいよ式の後半になった。体育館のステージに上がり、緊張していたのか、私はステージに上がったとたん楽譜を落とした。慌てて拾い、一瞬で頭が真っ白になり、ピアノの前の椅子に座り、足がガクガクしていた。一呼吸し、遠く離れた場所に立つ音楽の先生の指揮を見て、前奏の伴奏を勢いよく弾き始めた。やがて全校児童の歌声が胸に響きわたってくる。「これが最初で最後の伴奏になるなんて······」と、村の子どもたちの歌声によって、「私」を閉じ込めていた箱の蓋が再び開き、東京に戻りたくない気持ちが一気に溢れてきた。この気持ちを目の前のピアノの鍵盤で表現するかのように、両手で力強くピアノを弾いていると、「どうかこのまま終わらないでほしい」という思いと、「これでもう本当に終わるんだ」という思いが戦っているかのようであった。そして、全校児童の歌声によって「私」は再び、この村にやっぱり残りたいという気にさせられた。しかし、最後まで伴奏を力いっぱい弾き終えた私は、その思いに再び蓋をし、悲しみの海の底にある箱の中へと静かに「私」を沈ませたのだった。
午前中の式が終わり、職員室へと戻る途中、移住相談でお世話になった松本さんに声をかけられた。
「なつめさーん、こんにちは! お久しぶりです。校歌の伴奏良かったですよー」
「あ、松本さん! どうも、お久しぶりです。見に来られていたのですね。ありがとうございます」
と、この村を案内してくれた松本さんは、私たちが移住した直後にコロナを患い入院していた。5ヶ月ぶりに会う松本さんは随分痩せていた。松本さんは私たちが東京に戻ることをまだ知らない。東京に戻る日は近いが、そのことをいつ言おうか、今はやめておこうか、そわそわとし始めた。
「なつめさん、いかがですか。麻績村の暮らしは、慣れましたか」
と、早速聞かれ、ギクッとした。慣れるも何も、もうまもなく東京に戻るのだ。
「え、ええ、私は慣れてきたのですが、どうも息子が全然慣れなくて······。それで挙句の果てに、体に異変が起きてしまっていて。なので、実は、急遽東京に戻ることにしたんです」
と、卒業式を終え、東京に帰りたくない気持ちでいる「私」が、また蓋を開けて飛び出してきそうだった。でも、その蓋が開かないように、ぐっと抑え、この村にいる日にちがもう現実的には迫ってきていることを、このタイミングで勇気を出して、お伝えしなければと思った。
「え! う、うそでしょ? え、ほ、本当ですか?」
「はい、本当です! とても急で残念ですが、そうなんです」
と、どこまでも潔くきっぱりと冷静に。もう誰に何を言われても動じない、揺るがない、迷わない、言うしかない、と決めたのだ。松本さんは驚き過ぎて、一瞬固まっていた。目をパチパチさせながら、
「もしかして、村人がなつめさんたちに何かしました?」
と心配して小声で私に聞いてくる。
「本当にごめんなさい。そんなことは、全然ないです。むしろみなさん優しくて親切で、本当に本当に残念で申し訳ない気持ちでいっぱいです」
と、コロナの入院から回復したばかりの松本さんにさらにショックを与えてしまい、さらに申し訳ない気持ちになっていた。唐突なことで、ショックをうけている様子が伝わってきて、見ている私もつらくなる。でも、あまり時間がないので後回しにしてもしょうがない。
「色々と、松本さんには移住前から親切にしていただいたのに、本当にすみません」
と、東京に帰る前の関門を一つ一つ通り抜ける思いで、だれに何を言われても動じずに、勇気を出して戻ることを伝えたのだった。もう決めたことなのだから、何を言われても前に進むしかない。
「ええー! 本当に何があったんですか? 村人が何かしたとか、本当にないですか」
と、また聞いてくる。私はそんなことは「一切ない」と言いきり、ただ息子の体の異変のことだけを伝えた。自分でもこんなことが起きたことを信じたくない思いでいっぱいの状態の私は、息子の体調のことを少しだけ話せる範囲でお話した。
「そうでしたか。コロナでずっと入院していたもので、こちらこそ、何もできなくて、すみません」
「いえいえ、回復してよかったです。こちらこそ、こんな早急に戻ることになり、本当にすみません」
と、お互いに謝り合った。
「また手続きのことで、役場に行くのでその時に改めて」
と、私は職員室に急いで戻った。もう、これ以上自分に起きていることを話したくなかった。村人に優しくされるたびに、戻りたくない気持ちがどんどん溢れてくる。
その後、離任式があり、離任する先生と一緒に私もステージに上がった。離任する先生方に混ざり、私もひとこと言うことになった。ステージに上がると、子どもたちがもう泣き出している。先生方が離任することでこんなに多くの子どもたちがボロボロと泣き出し始めるなんて、最後の最後まで純粋な子どもたちの姿を見て、悲しみの海の底の箱に閉じ込めた「私」も蓋を開けて泣き出しそうだった。離任式で子どもたちが泣く姿を、東京の学校では見たことがなかった。感情を素直に外に表現できる子どもたちがうらやましいと思った。子どもたちが涙を流し、悲しみに蓋などせずに素直に外に出している。ステージ上から一人一人泣いている顔がよく見えた。同じように今この瞬間「悲しい」のに、箱の中に閉じ込めた「私」は、ここで一緒に泣くことができなかった。感情を外になかなか出せなかった私に、村の子どもたちが教えてくれた大切なことは、人間の喜怒哀楽の感情を素直に表現することだった。笑ったり、泣いたり、悲しんだり、喜んだり、感情をなかったことにしないでいいということを、子どもたちを見ていつも教わった。自然の中でまっすぐにたくましく生きてきた素朴な人間の姿を見て、それが自然とともに生きてきた人間の真の姿だと思った。飾ることも偽ることもせず、そのままの自然な心の状態でいる人間が、人工的な都会で、不自然にズレて生きてきた人間の心を正位置に正してくれたようだった。悲しみの海の底にある箱に閉じ込めた「私」が、この中で静かに泣いている。その涙が溢れてきそうだったとしても私は外に出さずに堪えていた。本当は、もっと一緒にこの村で過ごしたかった。一人の人間として、子どもたちの気持ちに寄り添っていたかった。感情を素直に外へ表現していいことをもっと教わりたかった。でも、私にはそれがもうできないということも、素直に悲しいと言うことも、この場で素直に言うこともできなかった。せめて、この村の子どもたちと先生方に教わったことに感謝の言葉を冷静に述べようと、また不自然になる私がいた。この村の小学校なら、素直に泣いてもよかったのに、冷静に言おうとしてしまう。箱の中で泣いている自然な「私」を押し込めて、悲しみの感情など出さずに、感謝の言葉だけを述べようとしている不自然な人間の私が嫌になる。
「見えなくなっていた本当に大切なものに気づかせてくれて、本当にありがとうございました。自分にとって何が大切で、大切な人が誰だったのかということに、この村の子どもたちが私に教えてくれました。ありがとうございました。また麻績村に遊びに来ます」
と、それだけ述べた私は、もうこの瞬間に支援員ではなくなった。支援員の仕事と移住生活は、このタイミングで終わってしまった。でも、これでお別れではなく、また村に来たいと心からそう思った。心と言動が一致して、また村で会えたらうれしいと、そのことだけは素直に伝えることができた。
卒業式と離任式の後、東京への引っ越しと再転入の手続きを急いで進めた。短い間だったが、お世話になった近所の村人にも一軒一軒、挨拶をしに行った。すると、不思議な物々交換が始まった。私と息子がお菓子を持って挨拶に行くと、職場のいちご農園で採ってきたばかりだという摘みたてのいちごをくれたり、さっき畑で採ってきて洗ったばかりの大量のほうれん草の束をくれたり、さらには、会社の宣伝用のタオルや、家にあったビスケットをくれたりと、次々とその家の中から、「お返しに」と、ささやかな気持ちを受け取った。最後まで心優しい村人が悲しみの海の底の箱の中にいる「私」を訪ねてくる。まるで、この村全体が、おばあちゃんの家のような存在のように思えてきた。ますます東京に戻りたくない気持ちになってしまう。物々交換する近所づきあいなど、東京の暮らしではなかった。どちらかが一方的に渡すことはあったが、渡した直後にその家の中の物を持ってきて、その場で物を交換するようなやりとりなどしなかった。感謝の気持ちをお互いに交換し合い、ご近所への挨拶回りを終えた私は、うれし涙と悲し涙が一緒にじわじわと溢れてきた。私が渡した東京のお菓子など、本当につまらないものだと思いながら、引っ越しの準備に戻る。素朴で優しい村にこのままいたい、と思う気持ちが確かにここにある。でもいつまでもここにはいられない。息子の小学校の新年度が始まる前に、東京に戻り、転入手続きや引っ越しの準備を急いでしなければならない。引っ越し用の段ボールに、家の物をどんどん詰め込んでいく。この村人の優しさと、子どもたちが教えてくれたこと、今、無念で悲しい気持ちも全部一緒に押し込んで、私は黙々と段ボールの箱の蓋を一つ一つガムテープで閉じていった。
ボブルイスク滞在記 7月 - 田村虎之亮
7月の記憶を辿ってみると1週間ほどしか思い出せない。あとの3週間は何をしていたんだろう。
今年は例年より暑く、結果的に日本と変わらない気温の日が多かった。習慣になりかけていたランニングはやめてしまい、断熱性の高い部屋は熱がこもって毎日が熱帯夜だった。
7月の初旬は去年知り合った日本人の留学生が全員帰国する週だったので、一人一人見送りに行った。
最後の日本人を見送ったあと、東欧でラーメン屋の開業を目指している日本人の知人とサウナに行った。以後、彼(と言っても自分の父親と同じぐらいの年齢だけれども)とご一緒することが多くなった。
サウナから出たあとは私の友人2人と合流して北京ダックを食べに行った。
その翌日から私は暫く家を出なければならなかった。私が住んでいる号室は友人の従姉の物だったが、彼女が帰省するので私は1週間ベラルーシの田舎を転々とした。別の友人が泊めてくれることもあればホテルに行くこともあった。何より移動が苦痛だった。移動の途中で仲の良い友人が滞在先に来て遊んでくれた。
その大移動のうち最後の3日間はラーメン屋の知人の所へ厄介になった。彼は私の写真家としての将来に期待してくれているので厳しい言葉を投げかけられた。「自分の写真で人類をどうしたいのか」
という問いに私は答えることができなかった。自分の今の活動はその問の先延ばしに過ぎないという見解は一致した。ちなみに彼はラーメン屋で人類のモラルを高めたいと言っていた気がする。
この会話の翌日、私はボブルイスクに帰宅したが彼との会話がことあるごとにフラッシュバックするようになった。バスセンターに降りたとき、友人は迎えに来なかった。家に帰って荷解きをして近所のサウナでビールを飲んでいたときに今日は無理だとメッセージが来た。朝の6時に迎えに来れるか聞いたのだけど、この15時間何をしていたんだろう。それからも友人とは都合が合わない日が続いて、誰とも会話をしない日が5日間続いた。そんな状況でも例の会話がフラッシュバックしてくるので気分はあまり良くなかった。自分はどうして写真を撮るのだろう?
気がつけば私はthreadsで海外を放浪している人の投稿を見るようになった。日本が嫌で出てきた人、やりたいことのために出てきた人、色々な人がいたが彼らの書き込みは総じて希望に満ちていた。では私は? 自分の写真をどうしたいのか? これからは?
日本を出たけども厳しい言葉を突きつけられ、ただ一人、鬱屈とした日々を過ごしている。ベラルーシに行く直前の2022年にAltmedium(高田馬場)で開いた展示を思い出す。あの時は今以上に人と関わらず、ただ街を歩いて写真を撮っていた。その時の展示を越える写真は撮れているだろうか。ベラルーシに行き、人と関わって、他人に期待してしまうようになったのが良くなかったのだろうか。同じ3ヶ月の滞在なら知り合いが誰もいない国に行ったほうが良かったかもしれない。
7月最後の2日間は仲の良い友人がボブルイスクまで来てくれたので友達3人で街を歩いた。滞在期間はあと2週間になった。作品に昇華できるようにしたい。(8月10日)
ニセの床屋 - スズキヒロミ
「あ、きたきた。じゃカンパーイ」
「ふうー。久しぶりだったねえ」
「? 今オレの頭チラ見した? ······うん、確かに最近、この辺の毛は薄柔らかくなってきた」
「いやいや、変わった髪型してんなあ、って。五角形? 六角形かな」
「ああ、それがさあ、変な話なんだよ。普段行ってる床屋に息子と入ったらさ、いつもの人たちだーれもいなくて。代わりに見たことないお兄さんが3人いて、『いらっしゃいませ』とか言うんだよ」
「ふむ」
「お客さんも誰もいなくてさ。なんか変だけど、いつもは大勢並んでるから今日はツイてる、と思って、とりあえず切ってもらうことにしたんだけど。やっぱ変なんだよ」
「何」
「いつも『後ろと脇は4ミリので刈り上げてもらって、上はここから2、3センチ短くして下さい』って言うの。そしたらさ、『それだと角刈りになりますけどいいですか?』って言うの。今の説明だと角刈りになんの?」
「うーん。そうなんかなあ?」
「そんなん言われたことなくて、なんかやっぱ怖いな、と思ってさ。いつもの人たち縛られてんじゃねぇか? 奥に、と思って。逆らって気が変わったら困るから『それで大丈夫です』っつって、やってもらったらこれ」
「それでその五角形」
「角刈りでも四角になるよねえ。まあ伸びるから良いけど」
「息子ちゃんは?」
「そっちもなんか変だったけど、本人は全く気にしてないし、伸びるの早いから。まあいいか、と。」
「いいの?」
「うん。そいでうちら切られてる間に、いつの間にかお客さん並んじゃっててさ。7、8人いたかな。シゴトするタイミングも、逃げるタイミングも失ったね、あの人ら」
「すっかりなんか犯罪者あつかいだけど」
「絶対怪しいよ。だってこんな頭にして金取る? 普通」
「ふーむ」
「他の人たちどうなったろうな」
「今度そこ行ってみようかな」
「勇気あんね」
「多角形刈りにちょっと興味ある」
「切ったら教えてね。てかまだいるかなあ」
霊視占い体験記 - RT
こんなに毎日だらけていていいんだろうか。特に誰からも何も言われていないのに悩む。
ふと占いに行こうかと思った。先日JR環状線から、福島駅前に「売れても占い商店街」というところがあるのが見えて、こんど福島駅で降りてみようかなと考えていたのを思い出したのだ。
占い商店街のことを調べてみたけど有名な占い師にゆかりのある土地ということで、街に占い師さんがたくさん出店しているということではないようだった。そうか。じゃあ他のところも調べてみよう。できたら手相占いがいい。怒るより褒めて伸ばしてくれる人がいい。などと思いながらいろいろ見ていたけどどうもぴんとこない。
ひとり、この人のお名前が気になるなあという人がいて、詳しく書けないけど縁起のよさそうなお名前、顔写真もなかなかいい人そうだ。でも手相占いではなかった。
引き続きいろんなサイトを見ていく。どんどんわからなくなってきて、もうやめようかなと思っている時にまたさっきの占い師さんのお名前が出てきた。霊視占いだという。ちらっと口コミを見たら、なにかを止められたとか出てきて、結構はっきり言うタイプなのかもしれない。しばらく迷いながら、けれど他に見てもらいたい人がいない。友達がタロット占い師をやっているけど出来たら私情を入れずに見てもらいたい。この人に決めた。
上手く話せなくても聞き出してくれると書いてある。とにかく行ってみようと思ってポチポチと予約を入れて、出かける準備をして電車に乗った。
緊張はしなかった。何を見てもらうか、どういう言葉を話すかもその場で出てくるのに任せようと思った。
予約時間の30分前には現地に着いていた。繁華街から一歩外れたコンビニの向かいのビル。コンビニの前に大きなごみ袋があって甘酸っぱいような匂いを放っていた。表通りにはハイブランドのショップが並ぶ煌めくような街だけどあんまり楽しそうな人は歩いていないように見える。道が汚れていてもゴミが落ちていても無関心で携帯で話しながら通り過ぎてゆく。外国の旅行者の女の人が真っ赤な顔になっていた。熱中症になるんじゃないか。今すぐ休んだ方がいい。気になるけど話しかけられない。ほんとうに来てよかったのだろうか、気持ちを落ち着かせるためにコンビニでお水を買って一口飲んだ。
座って待つところがあるだろうから入ってみようと思って階段を上がっていってドアを開けた。想像していた受付の人はおらず、黒いレースのカーテンが閉まった黒い壁の個室が並んでいた。どこかの部屋からテンションの高い男性の声が聞こえる。消毒用アルコールがぽつんと置かれている。どこに行ったらいいんだろう。
設置されているタブレットを見たら、予約した先生は3番のお部屋にいるそうで、15時の予約の人はお入りくださいと書いてあった。その時点であと20分あったけどカーテンを少し開けて、こんにちは。と声をかけてみた。中には若い女の人がいて片手を額に当てて目を閉じて何かに集中しているようだった。邪魔してはいけないと慌てて閉めて、部屋の前の椅子に腰かけた。
しばらくして、中で動く気配があったのでもう一度カーテンを開けて、15時から予約させてもらっているのですがもう少し待っていた方がいいですか? と聞いたらどうぞお入りくださいと椅子を勧めてくださったので入らせてもらった。
よろしくお願いします。とお辞儀をした。写真よりシャープな印象の人。占いのお代金3300円をお渡しした。予約の時点で名前は伝えてあったので、るみさんの年齢を教えてくださいと聞かれた。あと結婚と子供の有無、子供の年齢を聞かれて、それを紙に書いておられた。それ以外の情報は聞かれなかった。
ちょっと······と、先生が立ち上がって、香水の匂いが······と呟いてカーテンを開けて何かの動作をして、これで大丈夫かな。まあまたすぐに戻るかもしれないけど。というようなことをおっしゃった。
今思えば、好奇心の強い女性の霊でも廊下をうろついていて部屋を覗いたりしていたのだろうか。なんて想像したら面白い。
とにかく、わたしには感じられない何かを先生は感じておられるようだった。
占いが再開された、何を話すか決めていなかったのに、ずっと専業主婦をやっていて、クリーニングの受付のパートを4年ほどして鬱になって、しばらく療養してこんどは障害者雇用で働き始めて4年ほどしたらまた鬱になって、長続きしないんです。今は美味しいご飯を作ったり家を居心地よく整えたりしようと思うのだけど何か世の中の役に立てていないような気持ちになって。と話していた。
そうなんですね。前向きなエネルギーの方という感じを受けますが。まず言っておきたいのは、なにもしなくてもあなたは存在しているだけでいいのだということです。と先生はおっしゃった。
そういうことはよく何かの文章で読んだりするけどほんとうに腑に落ちていなくて、なにもしていない自分には価値がないように思える。
でも先生の微笑みは優しくて、夢のことを話してみたくなって、お金を貯めて5年後とか長期的な目標でカフェをやりたい、わたしと同じような人がくつろげるところを作りたい、ということを話した。
それは素晴らしいことですね。ただ······
今すぐやる方がいいですよ。と先生はニコッと笑った。それは······借金するってことですか? と聞いたら、まず自分の看板を上げて心からこれをやりたい。と言ったら必要なものは与えられる。完璧に準備してお金が貯まったらやろうと考えていてばかりではずっと出来ないよ。と言われた。
そうか······確かにわたしは考えすぎるところがあります。と言った。
先生がわたしの目を見たからドキッとしたけど目が合わないのだ。こっちを見ているのにどこか奥の方を見ているような、黒目から触手が四方八方に伸びているような、今まで見たことのない瞳の色だった。これが霊視されている状態なのか。少し緊張しながら先生の目をぐっと見つめ返した。
最寄りの駅にお稲荷さんがあってよくお参りに行くのですがその近くでお店を出来たらと思って。と言うと、先生は、うん。うん。るみさんはわたしと同じ。学生の時友達はジャニーズの話とかしていたけどわたしは神社ばっかり行ってたの。と言われた。
先生。わたしはマッチが好きでした。と本当のことを言えるわけもなく、でも確かに友達や学校にうまくついていけないところはあった。短大で不登校になったし。そういうところを見透かされているのかもしれない。
とにかく先生はわたしにご自分と通じるものを見てくださっているようで、それは嬉しかった。そのあとは、まずは間借りカフェから始めたら。とか、椅子二つくらいから始めてもいいし。理想に近いお店にお茶を飲みに行ってみたり。と和やかな世間話のようなお話が進んだ。
実は、去年気持ちがすごく盛り上がって、東京に行ってお友達に自分の煎った珈琲を飲んでもらったり、カフェ開業チャレンジ講座に行ったりしていてその矢先にガクッと落ちたので、神様に反対されているのかと思っていたんです。と言ったら、反対はしてないけど、頑張る方向が間違っていたら強制的に止められることはあるよ。と言われた。
誰かのためとか思わないで、自分のやりたいようにやっていいの。と言ってもらった。誰かの役に立ちたい。カフェをやりたいのだってそういうことだ。でもまた頑張りすぎようとしていたのかもしれない。わたしの器は小さいから頑張りすぎるとショートする。もっと柔らかく生きられたらいいな。
あっという間に30分が経って、先生が名刺をくださった。このお名前が素敵だなあと思って気づいたらポチポチっと予約してたんです。と言ったら先生は少し照れたように笑った。あっ、人間らしい感じ。わたしとおんなじだ。よかった。
また何かあったらお話させてもらいたいと思います。と、霊視占いは無事に終了した。
やみくもに動いたらまた無気力な状態に陥るんじゃないかと思って怖かった。もしかして大丈夫なのかもしれない。かといって自分が生きている間に会える人にも行ける場所にも限りがあるのだから慎重に動こう。
でも先生がおっしゃった7月中には何かやりたくて、おすすめしてもらった食品衛生責任者の講習に申し込むことにした。受けるのは8月になるけど。
その後自分の中で結構大きな出来事があった。詩人の池田彩乃さんという人が今青森に住んでおられるそうで、関西で里帰り朗読ツアーをされるという。
会場は神戸の自由港書店、晴れていたら須磨の海岸へ行く。定員4名。
参加したい。でも定員が少ない。他にも行きたい人おられるだろうな。池田さんのファンとか自由港書店さんの常連さんとか。
いつもの自分なら行きたいけど辞めておこうとか変な遠慮をしてもやもやするところだけど占いのことを思い出した。
自分はどうしたいの? 行きたい。なら申し込めばいい。そうだ。そうだよ。力強く送信ボタンを押した。
そして、行けることになったのだ。今からすごくわくわくしている。
なんと参加者も詩を書くって、どういうこと?
波打ち際で遊んでいるこどもになったみたいで、優しくゆらゆら揺られているようで、こんなでいいのかな。とまた思う。
いいよ。ここにいてもいいよ。
自分に話しかけてみる。
魅惑のバリカン - 橘ぱぷか
夫にも子どもにもできる限り自分の好きなようにのびのびと過ごしてほしいし私もそうでありたい。だからいろんなこと好きにしたらいいよ、やったらいいよと出来るだけふわっと放っているけれど、夫の坊主だけはそうはいかなかった。
4年ほど前の夏、ふらっと散髪に出かけて帰宅した彼の頭を見た時の衝撃。まだ限りなく赤ちゃんに近かった息子も、我が父だと認識しきれずにフリーズしていた。しかも一厘。あんなにふさふさとしていた毛はひとつも見当たらず、いや正確にはちゃんとあるけれどほぼ地肌。触ると、限りなく皮膚。固まる我々とは反対に、本人はとっても朗らかな表情を浮かべ、しあわせそうだった。
聞けば、実はずっとやってみたかったのだと言う。
いろいろと追いつかずにえええと混乱したけれど、そのハッピーフェイスと頭の仕上がり具合の組み合わせにじわじわときた私は、気づけば堪えきれず爆笑していた。
だけどそこには大きな問題があって、世の中には坊主がばっちりしっくり似合う人はたくさんいるけれど夫は違うということだった。どこか罰せられた感が拭えない。おしゃれ坊主とは程遠く、昭和の香りが漂っていた。
職場の人たちからはお前何やらかしたの? と頻繁に聞かれたようだし、身内にも激震が走った。私の母は、もうやめてね、と真面目なトーンで諭していたし、彼の地元への帰省時にはティンちゃん(=夫)あなたどうしたの、の雨嵐。90を超えるおじいちゃんからも、「髪伸ばせよ」と険しい顔で念押しされていた。そんな諸々も相まって、もう坊主はやめてね、と私はお願いすることにした。家族としての責務である。夫はあの爽快感が忘れられないようでその後も隙あらば頭をまるめようとしていたけれど、GOサインは出せなかった。
月日はめぐってこの夏、私たち家族に試練が訪れた。子どもたちが通う保育園でアタマジラミが流行しはじめたのだ。
アタマジラミは人の頭髪から頭髪へとうつっていくもので、頭を寄せ合って遊ぶことの多い低年齢の子たちの間で特に流行しやすいらしい。不衛生な環境が原因なのではなく誰でもなり得るもので、予防法はない。けれど短い髪だとなにかと対処しやすいとのことだったので、夫と話し合い、とりあえず息子の髪を短く刈ることにした。
早速ネットでバリカンを購入し、あらゆるサイトで予習をする。いける気がする。そのままの勢いでその夜決行した。
仕上がりはなかなかいい感じ。そして何よりも、刈るのがたまらなく楽しかった。サササーっと手を動かすたびに、髪の毛がふぁさっと床に落ちる。カタルシス。
もっとやりたくなって、思い当たったのが夫だった。常日頃から坊主願望をちらつかせている彼と、とにかく刈りたくて仕方がない私。今ならばwin-win。それに頑張れば、おしゃれ坊主にできるのではないだろうか。あのときは一厘だったけど、六厘とかなら。えりあしとか、三厘とかにしてメリハリをつければ。夫に提案すると即快諾されたので、目標となる髪型を調べて定めたのち、またもや実行した。
サササーっ、ふぁさっの再来は、私に大きな喜びをもたらした。しかも今回は息子の時と違って相手は大の成人男性である。ふぁさっの勢いと量が違う。最高だった。
もうすでに全体は六厘になっていて、おおよそ均一でいい感じ。今度は一部を三厘に刈り込んでいく。
しかし、ここで急に不安になってきた。大胆に滑らせているうちは良かったけれど、今度は正確さが求められるような細かい作業になってくる。私の苦手分野だった。
目標となる髪型の画像をもう一度見返して、自分を奮い立たせる。イケてるツーブロ坊主。大丈夫大丈夫、いけるいける、よし!
しかしここで大きなミスがあった。心の声を思わず口にしてしまっていたのだ。やべっと思った時にはもう遅く、視線を感じたので恐る恐るそれをなぞると、鏡越しに夫と目が合った。不安そうに揺らいだ瞳で、こちらを見ていた。
八月 - ly
天気が荒れるまえに、と母と姉との三人で墓掃除に出たのは、日が翳り始めたころのことだった。翌日の日曜は、台風が直撃する予報だった。盂蘭盆会は、週明けの火曜に迫っている。
墓所は山中にあった。ふたつの桶に水を汲んで、姉と私でひとつずつ持って登った。母には線香やゴム手袋、ライターやたわしを入れた紙袋を預けていた。途中、先を進んでいた姉がよろけるように歩調を崩すことが二度あった。一度目は眼前を横切っていった黒蝶を、二度目は垂直に突進してきた鬼やんまを避けていたようだった。
気づいたら左腕を四箇所、右腕を三箇所蚊に刺されていた。防虫スプレーを二度、腕と首とに噴きかけておいたが、だめだった。枯葉で覆われた地面を掃いていると、蚯蚓と遭遇する場面も多々あった。屋根を取り去られた蚯蚓は、土の上をのたうち回っていた。波型に身体をくねらせて、近くの枯葉の下に潜り込もうとするものもあった。近傍で油蝉が鳴いていた。あの樹かもしれない、と姉が指差した方向を見ると、木肌の粗い杉の樹が、こちらに向けて傾いでいた。今にも倒れ込んで来かねない傾き方だった。
一時間ほど経ったころ撤収し、下山した。寺の本堂の正面に降りると、前庭に咲いていた木槿と凌霄花が眼に入った。木槿は白で、凌霄花は橙色。どちらも盛りを過ぎて、花びらは褪色し、萎れかかっていたが、不思議と眼が離せなかった。枯葉や土、虫や石など、彩度の低いものに囲まれて過ごしたあとだったからかもしれない。花というものの存在の鮮やかさには、時に不気味なほどのものがある。
ここ数日、数年ぶりに梶井基次郎を読み返している。なぜだろう。これという理由はないかもしれない、と思っていたが、読み進めていくうちに、愕然とした。収録作品の語り手ないし視点人物の多くが病気をしているが、そのことがほとんど記憶から抜け落ちていたのだ。こんなに大事なことを、と呆れ返る一方で、乱暴なこじつけかもしれないが、病を得て、職を退いた自分が、基次郎に引き寄せられていったのは、この抜け落ちた記憶に由来していたのかもしれない、とも思った。だがこの本が──ほかでもないこの本が、宿願のような一冊となったのは、昨日今日のことではなかったはずだ。すでにぼろになっていたこの本を、こわごわ手にとった十数年前から、その望みは始まっていたような気がするし、望みが叶いはしないことも、定められていたような気がする。
一昨日は戦争の夢を見た。内戦が勃発して、なんらかの方法で選定された殺戮の対象者のひとりとして、私は追われている。身を隠しながら逃走する最中、私の素性を知りながらも食事に招待してくれたひとらがあり、私は歓んで招きを受ける。──だがかれらは実のところ密告者で、食卓を囲んでいたところ、武装した兵士たちが扉を破って部屋に雪崩れ込んで来る。
この一連に、もっともらしい解釈の手を加えることも可能だろうが、気が進まない。単なる知的怠慢なのかもしれないが、ここに並べ上げたばらばらの出来事と出来事との間に因果関係を見出して、理路を整えしかるべき説明を行うことに、なにか無理をしている、という印象を受ける。元来の呼吸のリズムを度外視して、だれかにいい顔をしようとしている、ような。
息の浅い拵えものが、たしかな強度を持つとは考えにくい。息があがらないようにするにはどうするべきか、ということを、考えるための休養期間がこの夏だったことを、書きながら、思い出した。そういえば、山中の記憶にほとんど暑さの感触がないのは、なぜなのだろう。
会話の断片 - 下窪俊哉
──前に話したことならありましたよ。
──かもしれないけど、話していてもわからないから、忘れてしまう。
──初めて書いたんです。
──そのことを書いてとは頼んでないんだよ、いつものことだけどさ。
──自ら書こうと思ったわけね、と大西さんが急に迫ってくるようになって言った。
──よくわからないんです。
──何が······。
──どうしてあんなことを書いたのか。
──書きたくなったんでしょ、と大西さんは大げさに首を傾げている。
細長いジョッキにつがれたビールが五つ、運ばれてきた。で、いいよね、と顔で言う津野さんに誘われて、とりあえず乾杯した。仄かに甘いビールが、喉を優しく触って下っていった。
──書きたいと思ってはいなかったですね。
──じゃあどうして書いたの。
──何か出てきたんです。
──つくってないんですね、と別の女性の声がついてきた。静岡さんだった。ぼくは思わずドキッとしてしまう。
──つくってない······、そう言われたら、そうかもしれないけど、書いているときには、そういうことは、考えてませんでしたね。
キャンドルの炎が自分たちの顔を照らして、そこに影を生み出している。ちょっと気味が悪い感じもした。目にその影を湛えて、津野さんが黙ってこちらを見ていた。
──さっきも言ったけど、と日吉さんが話を挿んでくれる。
──ええ。
──晴海くん自身が吃音の人だというのは、話していてもわからないんだよね。
──そうかもしれませんね。
前菜のサラダが運ばれてきて、食事が始まった。レタスやカボカドやパプリカに加えて、珍しい葉の野菜がのっていて、さらさらとしたドレッシングが透明な味わいを添えていた。皿とフォークのたてる音が、カランコロンと歩いているように響いた。
──他人にはわからないかもしれないですけど、自分にはわかるんです。こどものころから、ずっと困ってきたことなので······。
──それがまた、わからない、と津野さんも言う。
──困っていそうに見えませんか。
──だって、いまもスラスラ喋っているじゃない。
──いまは、言いやすいことばで、話しているだけです。それに、最近は調子がいいんです。
──調子が悪くなると、吃るの。
──いや、そういう簡単なことではなくて······。
──違うの。
──声はいつも、どこかで詰まっているんです。いまは上手く回避できているんですけど、調理が悪いと、できなくなる。
ふと見ると、静岡さんがハッとしたような顔をしていた。目が合って、見つめ合ってしまう。
──あ、いや······、と言って笑っている。
シェア型書店やめた - Huddle
地元の商店街の一室で、いま流行り(?)の「シェア型書店」が今年も期間限定でオープンすることになり、いつもの一箱古本市のノリで初めて出店者として参加してみたものの、なんだかいろいろよくわからなくなってしまった。
当初はいつもの一箱古本市のノリで、もう手放してもかまわないかなとおもう本ばかりを棚に並べて、いずれも安価に売りとばすつもりで差し出してみたところ、あらためてそのラインナップを眺めてみるに、これをじぶんの本棚としてここに公開してしまうのはなんだかまずいような気がしてきた。このままでは、同じ大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』が何冊も置いてあること以外に何もおもしろみがない。並べられる本の数が少ないせいもあるかもしれないが、とにかくいつもの一箱古本市のノリではだめで、大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』が何冊も置いてあることを除いてはいかにも寂しい気持ちがするし、ぼんやりとした不安を感じる。何気なく投げた石がイモリに当たりそうな気がする。そもそも大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』が何冊も置いてあることをおもしろがってくれる客がどれだけいるのか疑問である。値札もつけおわっていったん仕上がった本棚だったが、オープン直前になって考え直し、結局ほとんどの本を入れ替えた。何冊もある大江健三郎の『新しい人よ眼ざめよ』を除いては。
もう手放してもかまわないような本をぜんぶ引っ込めて、まずはいま読んでいる本、これから読み返そうとベッドサイドに積んでいた本をぜんぶ並べた。交流のある推しの作家の本を丸善で買い足してきて並べた。蔵書だと作家のサインとともにじぶんの名前とかも入っているし思い出ぶかいため売れないのだった。あとはいかにも文学が好きそうなひとがみても文学が好きそうにみえそうな本、セリーヌとかネルヴァルとかを並べた。いかにもな文学といえば仏文なので。結果的に、とても気に入って何度も読み返しているような本ばかりを並べることになった。もちろんどれも手放したくはないものなので、売れたらまたあらためて買うことになるだろう。でも、もうそれでいいのだった。これでようやくじぶんの本棚になったとおもった。
ところが問題は価格だった。売れたらまた買う本なので、あまり安くできないで、ついつい強気な販売価格になった。だからあまり売れないだろうことが容易に想像できるし、また買い直すのもわりとめんどうだからいっそ売れなくてもいいとさえおもえてきてしまう。丸善で買ってきた本なんて、さすがに定価では売れないからとちょっと値下げしたりして、すでにただ損をしただけになっているし、それでも売れないかもしれない。その本はもう著者のサイン入りをもっているのに。どうしよう。出店料を払って、丸善にも払って、すでに出費がかさんでいるのに、蔵書で自己紹介をしただけで終わるかもしれない。おそろしい。シェア型書店やめた。
とおもったけれど、ついでに並べていた『アフリカ』がけっこう売れているのでよかったです。
旅の話。北海道・美瑛 - 木村洋平
これは北海道の美瑛に旅をした時の思い出です。
僕は30歳近くになって初めて飛行機に乗った。子供の頃にも乗ったかもしれないが、自分で覚えているかぎりではこの時が初めだった。なぜか北海道にはずっと憧れがあり、中でも美瑛という丘の町はきれいなのだと聞いていた。それで初めて北海道に行けるなら、その美瑛に行こうと思った。
旭川空港に降りて、バスで美瑛のロータリーまで。車窓からラベンダーが見える。広々とした北海道の空気はしんとして少し薄いようにさえ思える。見晴らしがきいた。
······それで、途中をカットして、レンタサイクルで丘をめぐる最後のシーンに飛ぶ。
僕は軽い熱中症にかかったようで、カフェで休憩していた。その頃の北海道には冷房がほとんどなかった。カフェにもない。外のベンチに腰かけて大きな犬とたまにじゃれながら、ぼーっと休んだ。カフェの店員さんがリポビタンDか何かを差し入れしてくれた。ありがたい。飲むと元気が出る気がした。1時間以上そこにいたが、やがて夕方になり、丘の上から眺めると町が見える。電動自転車でもあることだし、30分もこげば帰りつくだろう。
ふだん遠乗りもしないのに、ぴかぴか日が照る日に丘を回り、ペットボトルの水を頭からかぶって坂道を下りたり上ったりしたからだ。日射病か熱射病か、なにかそういうのなんだろうと思ってあきらめてカフェに居た。
僕の旅にはこういう不調の思い出が多い。旅の記憶に残っているのはたいていキツい時のことだ。旅ではよい景色を見たり、ふだんは会えない友人に会えたりしたはずなのに、記憶をたどると「なんとかしのいだ」こと、吹雪の中を膝上まで雪に埋まりながら20分歩いたとか、そんな思い出ばかりよみがえる。
みなさんはどうですか?
巻末の独り言 - 晴海三太郎
● 8月です、厳しい暑さにめげつつ、今月もWSマガジンをお届けします。読んだら涼しくなるかどうか、わかりません、読んでみなけりゃ、わからんね? ● この数日の、地震のニュースで混迷している向きもあるようです。この星に暮らしていたら、いつ地面が揺れてもおかしくない、という頭は、いつも忘れずに持っていたいですね。同時に、いつ来るかわからない地震を恐れて何もしないでいたら、永遠に何も出来ないというのも事実です。この国はいま、いつか来るはずの地震への恐怖を(期間限定で!)煽る一方で、7ヶ月前に被災した能登半島を、放置し続けてもいます。何を見て、何を考えるか。信用に足ることばが一体どこにあるのか、諦めずに日々、取り組んでゆきたいところです。● この場所は、とりあえず書いたようなもの、文章でなくても、ことばの切れ端でも、メモでも何でも、ここに置いておこう。──そんなコンセプトを抱いて続けている、ウェブマガジンの姿をしたワークショップ、ある種の試みです。● 今月はいつもより原稿が少ないようですが、暑さのせいもあるでしょうか、ダラダラと続けていよう、と言いながらやっています。ダラダラ推奨? ● そんなこの場所への参加方法は簡単で、まずは読むこと、次に書くこと(書いたら編集人宛にメールか何かで送ってください)、再び読むこと、たまに話すこと。全てに参加しなくても、どれかひとつでもOK、日常の場に身を置いたまま参加できるワークショップです。● 書くのも、読むのも、いつでもご自由に。現在のところ毎月9日が原稿の〆切、10日(共に日本時間)リリースを予定しています。お問い合わせやご感想などはアフリカキカクまで。● では、また来月、元気で更新できますように。引き続きよい夏を!
道草の家のWSマガジン vol.21(2024年8月号)
2024年8月10日発行
表紙画 - 垂田浪華
ことば - RT/木村洋平/下窪俊哉/スズキヒロミ/橘ぱぷか/田村虎之亮/なつめ/Huddle/晴海三太郎/ly
工房 - 道草の家のワークショップ
寄合 - アフリカン・ナイト
読書 - 暇な仙人の会
放送 - UNIの新・地獄ラジオ
案内 - 道草指南処
手網 - 珈琲焙煎舎
喫茶 - うすらい
準備 - 底なし沼委員会
進行 - ダラダラ社
雑用 - 貧乏暇ダラケ倶楽部
心配 - 鳥越苦労グループ
謎掛 - のびた髪を切りながら打ち上げ花火をしました。いくつ打った?
音楽 - 風鈴楽団
出前 - 夏カレー研究所
配達 - 冷風運送
休憩 - マルとタスとロナとタツの部屋
会計 - 千秋楽
差入 - 粋に泡盛を飲む会
企画 & 編集 - 下窪俊哉
制作 - 晴海三太郎
提供 - アフリカキカク/道草の家・ことのは山房
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