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それらしく

 UCCカフェプラザ2階窓際カウンター席に座って朝の珈琲を飲んでいる。珍しくカウンター席の左奥に客が座る。サラリーマン風の男性が「Cセットでブレンドコーヒー」と注文する。男性はテーブルの上に置いたパソコンの画面を起こして電源ボタンを押す。画面が明るくなったパソコンには触らず、スポーツ新聞をめくっている。

 カウンター席の右側の4人がけテーブル席に、最近よくやって来るおばさんが座った。ダミ声で「アイスオーレお願い」と注文する。おばさんは早くも2本目の煙草に火をつけて煙を吐き出す。4人がけのテーブル席は窓際に寄せられており、おばさんはカウンター席に座るぼくの横顔を真っ直ぐ見るようにして座っている。ぼくの右目の端にはおばさんが吐き出したもうもうとした白い煙の塊がみえる。慣れた手つきで煙草を扱い灰皿にトントンとして灰を落とす。

 指先が冷たい。やや軋むような痛みがある。お腹が張っていて、あまり良い状態ではない。調子の良い状態なんて、かれこれ20年くらい味わっていない。

 今日という日は単体で存在する。時間は連続して積み重ねられている。いつのタイミングで今ここに至る道ができたのか。自分で選択したように見せかけて、ここまでやってきたのか。ここではないどこかがあったのか。今は今でしかないし、過去は過去でしかない。こうやって、それらしく、当たり前のように書いてみても、ぼくの頭は悪いままだ。

 そういえば、昨夜、帰りの電車の中で山下澄人著「しんせかい 」の表題作「しんせかい」を読み終えた。表現について書く世界が押し拡げられるような読書体験だった。昨年に開催されたまるネコ堂ゼミで取り上げた佐々木敦著「新しい小説のために」で「しんせかい」は紹介されていて、そこで触れていたせいか、けっこう楽しく読むことができた。誰かの批評を経て本と出会うのも面白い。

 あと、小説の内容にもハッとする場面があった。それはぼく以外の人が読めば何とも思わないような場面なのだろうけど、ぼくは明らかにハッとして、電車の中で一度本を閉じた。電車が駅に着いた頃にちょうど読み終わり、そのハッとしたことを思い出しながら、駅の改札を出て、いつもと違う道を歩いて家に向かった。その時見上げた空の月が雲のなかでぼやけていたことや、西の空に輝くはずの金星が雲のせいで見えなかったことを忘れていないのは「しんせかい」を読んだからだ。ここにこんなことを書いたのもそうだ。本を読むとたくさんのことが動き出す。本とは、そもそもそういうものなのか。

 あぁ、そうだ、ぼくは珈琲を飲んでいたんだ。左奥のサラリーマン風の男は新聞を読み終わってパソコンのキーボードを激しく打ち込んでいる。このタイピングのリズムや打音は前に出会った感じがするが、気のせいか。右側のテーブル席に座るダミ声のおばさんは短くなった3本目の煙草を灰皿に押しつけて、残りのアイスオーレをストローから一気に吸い込む。「ズズーッ」という比較的大きな音の後に「ズズッ」と小さく音をさせたおばさんは鞄と伝票を持って立ち上がり、一階レジに続く階段に向かって歩いて行った。



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