跳ねない短文の集い
寂しさが生じないのは、何処かに置いてきたのか、慣れてしまったからなのか。比例して動く寂しさは、一方の値が低くなると、もう一方の値も低くなる。防御態勢に入るぼくは、メカニズムを作動させる。
年齢を重ねて、何かを判断するとか、存在感を兼ね備えるとか、そういうことはなくて、組織のなかで、役割を与えられて、任務を遂行してきただけで、役に立たない自分がいやになって、組織を飛び出しても自分を生かすことができなくて、何もない世界に、ぼくは存在する。
たくさんみつかる不安を、一つ一つ潰していくことができず、ただ目を瞑って、日々をやり過ごすのは、昔からそうで、今もそうだから、何も変わらなくて、ただやってくる出来事を待つだけで、自らアクションは起こさない。
何も起こさないから、何かを目指すこともなくて、目指さないから、何も起こらないのは当然で、何も目指さないのは、何かになれないことが苦しいからで、結局目指しても何かになれなくて、それは自分にしかなれないから。
自分にしかなれないことが、苦しいことなのか、ぼくは自分になりたくないのか、どうしてそうなんだろうか、自分になればどういうことが起こるのか、自分がわかるのが恐いのか、バレてしまうのが恐いのか、何もできないことを知っているから、そこに至るのが恐いのだ。
何かを目指してもしょうがないのは、目指しても何かに至ることはないと知っているからで、やってみないとわからないけど、やってみなくてもわかることがあるし、やってみないから何も起こらないことがわかるということもあるし、何も起こらない安心感を手に入れて生きることもできるけど、それは生きていると言えるのだろうか。
生きるという行為を受け容れることは、一気に何かを仕上げていくようなことではなくて、一日に一本の線を描いて、その一本の線が重なって、絵になっていくようなことで、一生をかけて仕上げていくイメージ。
今日はこんな感じで。