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花井くんと課長と、みそ汁

お昼休憩の時間まであと5分だ。前の席に座る花井くんは、黙々とタイピングしている。この花井くんと、左側に座る上司の稲荷課長が、最近上手くいっていない。

稲荷課長はこの部署に来て2年目になる。専門的な業務を担っているこの部署に異動してきたが、なかなか業務の内容が難しくこの部署の仕事になじんでいない。自分なりに勉強していけばなんとかなるのだろうけど、そこまでのやる気もなく、部下のぼくともう一人の部下に仕事を任せっきりにして、課長は業務をすすめるようになった。

もう一人の部下が異動して、そこにやってきたのが花井くんだ。花井くんはとても仕事に対して前向きで能力も高く、専門的な難しい業務も自分なりに勉強してすぐに処理できるようになった。

稲荷課長もそのことについては喜んでいて「花井くんはよくやってくれるな」と事あるごとに言っていた。最初は花井くんもよろこんで仕事をしていたが、そのうちどうやらおかしいぞと思いはじめたようだった。

定時に稲荷課長が帰ったあと、残業していた花井くんが話しかけてきた。

「先輩、ちょっと聞いてもらえますか。ぼく、がまんできないんですけど。稲荷課長って、ほんとになんにもしませんよね。課長としての仕事、なんにもしませんよね。あんなのでいいんですか」


「あぁ、まぁそうだな。確かに、稲荷課長、何もしないよな。課長なりには、気をつかっているとは思うけどな。まぁ、何にもしないな」

「そうですよね。ぼく、課長のこと最初は良い人だなーって思ってたんですよ。旅行に行ったらお土産買ってきてくれるし、残業してたら差し入れで飲み物買ってきてくれるし。でも最近気づいたんですよ。課長って何にもしないんだなって。それで課長自身がやらなきゃならない仕事をぼくに振ってくるんですよ。ぼくも簡単に受けちゃうからだめなんですけど、ついついやっちゃうんですよね。あの人なにもしないから…」

「まぁそうだな…。何もしないことは確かだな。ちょっとは勉強とかしてくれたらいいんだけどな」

「そうなんですよ。人間だから能力の差があるのは仕方ないと思うんですよ。できないことがあるのはしょうがないですよ。でも、汗かかないのはダメですよ。目の前の仕事はぼくたちがやりますけど、あの人、仕事の内容のこと何にもわかってないじゃないですか。それで他部署から電話かかってきたら「花井くん、電話お願いしてもいいかな?」って、自分で答えろよ、って思うんですよ」

「そうかー。随分とストレスになってるんだな」

「そうなんですよ。もうけっこうストレスたまってて、やる気が出てこないんですよ。実は…、この前、課長と2人になった時に、話ししたんですよ」

「えっ、なんて話ししたの?」

「オブラートに包んでなんですけど『ちゃんと仕事してください』って話したんです」

「じゃぁなんて?」

「『わかった。これからは気をつける』って言ってました」

「それで?」

「なんにも変わらなかったです」

「だろうな」

「だろうなって、なんでですか?」

「いやぁーだって、課長がこの部署に異動してから2年間、一緒に仕事してきたんだから、だいたいわかるよ。稲荷課長はそういう人だから」

「先輩は、腹立たないんですか?」

「そうだなぁー、正直もうちょっと仕事してくれよって思う時はある。あるけど、なんていうかなぁ、別にどうでもいいような感じかな。いてくれて助かったことも…まぁ、あるかなぁーどうかなー。そうそう、旅行行った時にお土産買ってきてくれるよな」

「そうなんですよ。でも、もうお土産はいいんですよ。お土産より仕事してくれよって…でも最近差し入れの回数減ってきましたよね」

「そうなんだよ、差し入れの回数減ってきたよな」

「去年はもっと多かったですよ」

「確かに」

「先輩…、明日、休んで良いですか?ちょっと心を休めたいんです」

「あぁ、別にいいよ。休んでリフレッシュできるなら、どうぞどうぞ」

「今抱えてる仕事は、ある程度進んでるので、問い合わせがあったら、次の日に連絡するくらいで大丈夫だと思います」

「わかった、花井くんに電話がかかってきたら、次の日に連絡するように言っとくわ」


3

花井くんは一日休みを取ってリフレッシュできたのか、普通に稲荷課長と仕事上のやり取りはしてくれている。いまも黙々とタイピングして課長が使う資料をつくってくれている。

お昼休憩に入るチャイムがなった。デスクの引き出しを開けて財布を取り出した花井くんは席から立ち上がって部屋の出口に歩いて行く。お昼ご飯はいつも地下の食堂で同期の友人たちと食べていると言ってた。

左側に座る稲荷課長が奥さんの手作り弁当を鞄から取り出す。忘年会のときだったか帰りが遅くなって稲荷課長を家まで送ったことがある。その時に会った課長の奥さんはとてもやさしくて、酔っぱらった稲荷課長を介抱しながら、何度も頭を下げていた。あの奥さんの手作り弁当だ。

ぼくはおにぎり1つとクッキーが5枚入ったジップロックを鞄から取り出す。お昼ご飯を食べ過ぎるとすぐに眠くなってしばらく仕事にならないので、随分前からおにぎり1つとクッキー5枚にしている。

おにぎりのお供の味噌汁は職場の自席で食べるのでインスタントになる。おにぎり1つとクッキー5枚体制になってから、随分といろんな味噌汁を食べて研究してきたが、最近ようやく一つの味噌汁に行き着いた。

職場の近くにコンビニがあるのでレトルトの味噌汁もいくつか買って食べてみたが、どうもお湯の温度との関係から美味しくない。職場の電気ポットはエコ推進のために90度設定になっていて、常温のレトルトの具に湯を注ぐと味噌汁の温度が90度以下になる。それで美味しく感じないのかと思い、できるだけ温度が下がらない固形のフリーズドライにしてみた。

フリーズドライを使うとなると容れ物が必要になる。お椀を使えば環境的にも良いのだろうが、仕事場から洗い場までは距離があり、食べ終わってお椀を持って洗い場に向かうのが面倒くさい。なのでコンビニで10個入りの紙コップを買って引き出しに常備している。フリーズドライの味噌汁も引き出しに常備している。

おにぎり1つとクッキー5枚をジップロックから取り出して机の上に置く。紙コップ1つと個包装されたフリーズドライの味噌汁を1つ引き出しから取り出す。味噌汁の固形を袋から取り出して紙コップに入れる。席を立って弁当を食べている稲荷課長の後ろを通ると、椅子を引いた課長が通り道を開けてくれる。歩いて職場の隅にある湯温90度のエコポットに向かう。

ポットの解除ボタンを押してスイッチを押すと紙コップに湯が注がれて、固形の味噌汁が崩れていく。この味噌汁のメーカーの名前、なんだったっけな。そういえば、いつかみた誰かのブログの記事でインスタント味噌汁のことが書いてあって「あっ、ぼくが毎日食べてるのと同じ味噌汁だ」って思ったんだ。この味噌汁のメーカーの名前ってなんだったけな。

席に戻って、味噌汁が入った紙コップを机の上に置く。アルミホイルに包まれた冷たいおにぎりを左手に持って、右手でアルミホイルをはがしていく。左手に持ったおにぎりを一口食べる。思い出したように右手で引き出しを引いて、個包装の味噌汁が幾つか入った袋を取り出す。なんてメーカーだったかな。目を細めて袋に印字された文字をみる。

(2020/07/11 ライティング・マラソン 10分+20分+30分 校正済)


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