『たまごの祈り』㊻

「ねえ、直也くん、まだ見つからないのかな、由香里さんから何かきいてない?」
 私はなにか話さなくてはと思って、咄嗟にそう言った。柳はとても直也くんのことを心配していた。直也くんはもう三本のライブをキャンセルしていて、周りの人間に何も連絡がないということだった。
「さあ、まだ見つかってないんじゃないかな。ユカちゃんも心配してた。どこ行ったんだろうね」
 今村くんは大きなため息をついて、信じらんない、と呟いてふてくされるようにテーブルに顔を伏せた。
「俺、正直いうとすげーいらいらしてんの」
「え、どうして」
「だって馬鹿なんだよ、やりたいことがはっきりしててさ、舞台にだって立ってて夢はもう半分叶ったようなもので、ユカちゃんみたいな女の子も近くにいるのにさ、ふらっといなくなっちゃうっていうのが」
「うーん、そっか。でも、何か、あるんじゃないかなあ、逃げ出さなくちゃやりきれない悩みみたいなのが」
 私はパンを食べ終わったお皿の白色を見つめながら、そう答えた。
「いや、それにしてもひどい。俺だったらそんな風に逃げ出さないし、悩みがあるならさ、ユカちゃんにきちんと話すべきだと思うんだよ」
「うーん、どうなんだろう、直也くんと由香里さんって、別れちゃったんでしょ」
「だから、別れ方もひどいんだ。急に電話がきて、俺たちは釣り合わないとかって別れ話されて、一方的に振られたんだって、ユカちゃんから言いたいことも言えないままさ。ユカちゃん泣いてた。悔しいって。別れるにしても理由をしっかり話し合うこともできないのかって。私なんかちっとも信頼されてなかったんだって」
 今村くんは本当に怒っているように見えた。さっきまで話していた今村くんと、雰囲気がまるで違っていた。
「馬鹿なんだよな、いや、逃げることや休むことがだめだとは言わない、そりゃあ辛いなら逃げられるほうがいいに決まってる。でもさ、ユカちゃんの話ちゃんと聞かないでいるのがなんか許せないんだ。そりゃあ別れたって言っても男側の事情は聞いてないわけだから実際のところ二人がどんな話をしたかなんてわかんないよ、俺だって。どんな気持ちでいるのかなんてわかるわけないんだ。だってユカちゃんにも誰にもあいつ話してないんだからさ。でも、それってずるくねえ?関わり合いを持った人間にさ、真剣に自分のこと考えてくれてる人間に、何も言わずに消えるなんて、俺は、信じられない」
 真剣に話しているひとは、なんでこうも美しいのだろうと思った。きっと、今村くんはちゃんと人として由香里さんのことが好きで、だからこんなにまじめに腹をたてているんだと思った。私はよく澄んだ冬の日、我慢をして爆発するような不条理は抱えるべきじゃないと言い切った、清らかな化け物みたいに思えた、柳の顔を思い出した。
「今村くんは、真剣なひとなんだね」
「まあね、真剣にやって上手くいかないことのほうが多いけど」
 私には彼が順調に好きなことを選んでやっているように見えたので、少し驚いた。
「ユカちゃんさ、本当に直也って奴のことが好きなんだよ」
「そうなんだ、由香里さんがそう言ってたの?」
「うーん、そうだね、はっきり言っていたかはどうかわからないけど、態度でわかるものだよ。直也はちゃんと自分のやりたいことを選んで生きてるのに、なんであんなに馬鹿なんだ、何の得もないのに自分を責めるんだ、もっと今村を見習ってがむしゃらにやってみればいいのに、って、話してくれたんだ」
 今村くんは顔を伏せたままなおも続けた。
「じゃあ、俺のこと好きになってくれればいいのに、むかつくな」
 あー、といいながら髪の毛をぐしゃぐしゃにして、今村くんはしばらく動かなくなった。急に顔を上げたかと思うと、今村くんは泣いていた。私はどうしていいかわからなくて、とりあえず持っていたハンカチを手渡した。今村くんは、ありがと、と言いながらそれを使って涙をがしがしと拭いた。
「いや、おれださいな、ださいよ、こんなの」
「そんなことないよ、なんていうか、うん、今村くんはかっこいい生き方してるよ、若いのにさ」
「伊田さんいっこしか歳かわんないじゃん。伊田さんも若いよ。なに、ありがとう、俺かっこいい?」
「うん、かっこいいよ、うん」
「伊田さん俺に惚れた?」
「惚れはしないけど尊敬はしたよ、素直に」
「ありがとう、でもそれじゃだめなんだ、ユカちゃんは振り向いてくれないんだ、直也って奴が憎い。憎いんだ。ちょっと俺より早くユカちゃんに出会ってただけじゃんか。そんなのずりいよ。ユカちゃんは直也だし、伊田さんだって柳さんのことが好きだし、おれいっつもいい奴止まりじゃん、やだなあ、俺ユカちゃんが飛行機で隣になったとき、運命だって思ったもん、絶対。俺の信じた運命が運命にならないかなあ」
 今村くんはぽろぽろと涙をこぼしながら、あー、かっこわりい、かっこわりいと言ってしばらくまた机に突っ伏してしまった。私はどうしたらいいかわからず、その場でただ座って見ているしかできなかった。素直な青年はちゃんとかっこいいのになあ、こんな純粋な姿を見せられたらこっちが参ってしまうな、と、ぼんやり考えた。
「今村くん、私は柳のことはこう、恋愛的な意味では好きではないよ」
「嘘だ!」
 今村くんが顔を勢いよく上げて、ハンカチでぐしゃぐしゃの顔を乱暴に拭って言った。このハンカチいい匂いするう、と言いながらまた泣き出してしまったので、私は思わず笑ってしまった。
「いや、泣いている場合じゃない、伊田さんは本当に柳さんのことが好きなんだと思うよ俺は」
「うーん」
「伊田さんは難しく考えすぎだよ、恋愛としてかどうかなんて考えすぎなくていいんだよ、伊田さん、柳さんのこと好きでしょ」
「いや、まあ、人間としてはそりゃあ好きだけどね」
 私は、中学生のときの恋人のことを思い出していた。彼女が、あおちゃん、と呼んだ声が、耳元でした気がした。
「じゃあそれでいいじゃん」
 今村くんは唐突に私の手を握った。ぱちんと夢から覚めた気がした。
「それでいいんだよ、伊田さん、柳さんのこと好きじゃん」
「えっと、あまり大きな声で言わないでほしいかもしれない、なんか恥ずかしいから」
「恥ずかしいなんて図星だからに決まってんじゃん。恋愛って何、そんなの俺にもわかんないよ。俺はただユカちゃんに幸せに笑っていてほしくて、そのとき近くにいるのが俺であったらそりゃあいいけど、なんならむかつくけど直也だったっていい、ユカちゃんが幸せなら。いいじゃん、それが好きってことだよ、俺はそう思ってる。伊田さんはそうじゃないの?柳さんが幸せならいいと、願ったことない?あったら好きってことでいいじゃん。その頬が触れなくても、髪のにおいがかげなくても、最悪えろいことできなくても、いや、できるにこしたことはないけど、でもそれでいいじゃんか、なにを遠慮することがあるの」
 私は金槌で頭を無遠慮に殴られた気がした。
「恋愛も、人間の好きも、根源的には一緒だと俺は思う。恋愛って言葉があるから区別したくなるだけで、人間が好きだってのを恋愛ってカテゴリに当てはまるかどうか無意識に考えちゃってるだけで、恋愛も家族愛も師弟愛もなんだってどんなものだって、人に対しては全部人間愛だと俺は思う。伊田さんのは深い人間愛だよ。じゃあ恋愛か恋愛じゃないかなんて、関係ないと俺は思うけどね」
 拳で頬を持って行かれた気がした。イメージの中でぶたれた頬を押さえながら、気づかないうちに、心の中にずっと住んでいた、中学生のころの私は笑いながら泣いていた。
 こんなかたちで助けられるとは思っていなかった。
 今の私も泣いていた。
 これでよかったんだと思った。
 私は彼女のことが好きじゃないわけじゃなかった。ちゃんと好きだった。
 好きだなんて思うのは、エゴだと思っていた。エゴじゃないと言ったら嘘になるけど、でも私は柳という人が好きだった。
「なんだ、伊田さん、泣くほど柳さんのこと好きなんじゃん、じゃあ一緒にがんばろうよ、何をがんばるかわかんないけどさ、俺も」
「いや、ちがうの、ちがくないけど、これは、安心したの、いろいろと」
「そっか。うん、よかった。俺も、考えてることを伝えられてよかったよ、すっきりした」
 今村くんは、俺が使ったやつだけど、ハンカチ使う?洗ってから返した方がいい?と言いながら、申し訳なさそうにハンカチを差し出した。私はそれを受け取って、今村くんがやったようにぐしゃぐしゃに涙をふいた。
「あれ、伊田を泣かせてるの、今村くんじゃん、どしたの、何かあった?」
 私の後ろから柳の声がした。振り向くと柳は困ったみたいに笑っていた。柳の顔を見ると安心して、よけいに泣いてしまった。柳の笑顔は出会ったときからずっと優しかった。
「最初に伊田さんに泣かされたのは俺の方だし、伊田さんは柳さんの話をしてたら泣き出したんだ。柳さん、何かしたんじゃないの?」
「ええ、おれ、ごめん、気づかないうちに何かしちゃった?ほんとごめん」
「ちがうの、ただちょっと疲れてて、大丈夫だから」
「そうだ柳さん、柳さんの手、写真撮らせてよ、俺柳さんの手作ってみたいんだ、いいでしょ」
「それは構わないけど…」
「伊田さんが落ち着いてからでいいからさ、俺、大学って新鮮だし散歩してくるわ。落ち着いた頃に後で連絡します」
 そう言って今村くんは、さっきまで泣いていたのが嘘のように軽い足取りで離れていってしまった。
「伊田、どうしたの」
「柳」
「うん」
「私、アイスが食べたい」
「うん、どしたの、買ってこようか」
「いい、自分で買いに行く、ラクトアイス、安っぽいやつ」
「うん、そうだな、じゃあ一緒に買いに行こう。俺も食べたいし」
 私は、なんとなく一緒に生きてて、柳から発せられる私のための相づちを、強く優しい相づちを、まだ近くで聞けることが、本当に奇跡だと思った。心の中で頬を腫らした制服姿の私は、幸せそうに丸くなって眠っていた。
 私は幸せだと思った。そして、柳にもそうあってほしいと、中学生の私の頭を撫でながら、切に願った。

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