『たまごの祈り』⑧

「ふざけないでよ」
 花瓶が割れたみたいに冷たく女の人の声が響いて、私は思わず立ち止まった。柳と知らない女の人が、川辺に佇んで話していた。どうしたらいいかわからなくて、私はそこから動けずにいた。
「ごめん」
 とても悲しそうな声で、柳が言った。
「でも、いずれこうなったんだと思う」
「どうせ私のことなんてどうでもいいんでしょ」
 ちがう。でもいつかこうなってしまったんだと思う。おれのせいだ。ごめん。柳の声が頼りなく風に混ざって泡になって消えた。彼はぶくぶくと同じようなことを繰り返した。まるで、濁った水槽のなかの弱りきった金魚みたいだった。
 私は、そんなに悲しそうにしないでくれ、と願った。私にはわからないところで、私が見たことのない形の歯車が、大きな工場みたいなところで、よくわからない複雑さで不幸にもかみ合って、大きくぎぎぎと唸って回っているらしかった。私にはそういった運命をどうにかする権利や崇高さや特別な才能がきっとないから、ただ、そんなに悲しそうな声を出さないで、と、勝手に思うしか、できなかった。

 結局、私はできるだけ存在を悟られないように、しずかに早歩きでその場を去り家に帰った。知っている玄関と知っている扉の軋む音、知っている自分の家の匂いと知っている洗濯機、知っているテーブルと知っているカーペット、私の記憶のなかに新しく刻まれた、知らなかった、悲しそうな柳。
 何かあたたかいものを飲もうと思った。私は私がいつも使っているマグカップで、いつも飲んでいるいつもの紅茶を淹れた。今日は少しぼうっとしていたからか、普通に淹れたつもりの紅茶が、飲んでみたらいつもよりすこし苦かった。私は、オレンジ色の金平糖のことを急に思い出して、ぺりぺりと袋を開け、二、三個、紅茶に落としてみた。金平糖のオレンジがカップの底に濃い靄をつくって、それは悲しい星の最期みたいに溶けていった。重たい夕焼けが溶け出したみたいな色だった。紅茶は変な甘さになって、それでもなお、私の胃のなかに苦く落ちていった。カーテンの隙間から見えた窓が曇っていたので、私は窓を開けた。

 明日になったら平和にならないかな。あんな悲しそうな声、誰も出さないでいい世界になればいいのに。柳も、あの女のひとも、不幸じゃなくなればいい。
 私は鼻先で、乾いた冬を感じ始めている。

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