『たまごの祈り』⑨

「一緒に住むはずだったひとがいたんだけどさ」
 カフェで再び柳と向き合ったとき、訊いてもないのに急に言われたので、コーヒーカップを持ち上げるときにかしゃんと少し大きめの音を立ててしまった。
 訊かなくても、あのときの女のひとであることはわかった。あの日見た二人のただならぬ雰囲気から、あのひとがただならぬ女のひとであることはなんとなくわかっていた。でも、ただならぬとは一体どういうことだろう。私は落ち着きのないあたまで考えて、考えた末よくわからないけれど、きっと彼にとってただならぬことが起きたのだと思って、慰めの言葉を探した。ただ、いつまでたっても、適切な言葉は見つからなかった。私は柳にただならぬ言葉をかけることができる存在ではなかった。そして、ただならない自分をとても不甲斐なく思った。
マーガリンたっぷりの小倉トーストを囓りながら、柳は角砂糖が二つも入ったあたたかいミルクティーを見つめて、ゆっくりと続けた。
「結局、いろいろあってだめになって。引っ越し先の家がやっぱり一人で使うには、部屋も多いし広すぎる感じになっちゃって。まあ、そのひとに考えなしに一緒に住もうなんて言ったおれが、悪かったんだけど」
 いや、ちゃんと考えてなかった訳ではなかったんだけど、やっぱり難しいよな、人間って。柳はそう言いながら、ティーカップを口元に運んだ。私は、あたたかく甘い液体が柳の胃にすべり落ちるのを想像した。あたたかいミルクティーのほうが、私の下手な言葉よりは慰みになるだろうと願った。
「どうするの」
「新しく一緒に住んでくれる人を探すよ」
「茶トラと一緒に住めば?」
 私は河原でひなたぼっこをしている茶トラのピンク色のおなかを思い浮かべた。外で生きていて、寒くはないだろうか。河原に住みついている野良猫であろう茶トラは、毛布のあたたかさを知っているのだろうか。
「魅力的だけど、残念ながら、彼は人じゃないから」
 一緒に住むには人のほうが都合がいいんだ。柳は笑いながら言った。
「私が一緒に住もうか」
 冗談のつもりで言ってみた。ただならぬ関係の女のひとがいたはずの場所に滑りこむのなんて、気まずくってちっとも面白くなかったし、いうほど深い関係ではない私と同居する理由は、柳にはないはずだった。
 それにしたって、滑りこむとは何だろう。頭の中に暮らすちいさな私が、これを何かの好機だと、思っていたのだろうか。ツーアウト満塁一打サヨナラのチャンスで、二塁だか三塁にいる私が、チームメイトのホームランをきっかけに、ホームベースを目がけて走るように、何かの好機だと、思ったのだろうか。もしかして私は、ほんとうに柳と一緒に暮らしたいのだろうか。そもそも一緒に暮らすとは何だろうか。おそろいのマグカップで一緒に好きな紅茶を飲むこと?眠れない夜にブランケットにくるまりながら、一緒になって他愛もない映画を観ること?白身の境界線がなくなるのも気にせず、たまご二つぶんの目玉焼きをフライパンで一気につくること?
 わたしはひとりでわけがわからなくなって、とにかく先ほどの訂正の言葉を口にしなくては、柳に変に思われてしまっては困る、と思った。とりあえず何かを言おうと、口を開けてひゅうと空気を吸い込んだ。
 しかし、柳は予想外にも、潤みがちな瞳を見開いて嬉しそうに言った。
「ほんとうに?」
 だとしたらとても助かる、と言って、やさしく目を細めて柳は笑った。

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