『たまごの祈り』㉝
店を出て、街灯の連なる長い長い夜道を柳の背中を見ながら歩いた。柳はふいに立ち止まり、鞄からカメラを取り出して、地面に向けてシャッターを切った。伊田、ほら、みて、と言って私を手招きして、彼は言った。
「影がさ、幾つも重なって見えるんだ」
並んだ街灯の幾つもの光は、私たちの影を薄く何枚も重ねて映し出していた。どれが本物の私の影で、どれが本物の柳の影だろうと思った。柳のいちばん薄い影を踏みながら、私は口を開いた。
「柳はさ」
「ん?」
「カメラマンになりたいの?」
「どうしたの、急に」
「なんか、気になったの」
「うーん」
柳が歩き始めたので、私もそのあとについて歩いた。街灯とすれ違うたびに幾つもの影は姿かたちを変え、しかしそのすべては私たちの足下から伸びていた。
「写真ってさ、誰でもカメラがあれば撮ることができるじゃんか、それが好きなんだよね、おれ。もちろん、できれば写真だけで食べていければなって思うよ。でもさ、おれが写真を撮るのって、たぶん安心するためなんだ。安心できるんだ、カメラを手にした誰もが、同じようにシャッターを押して写真を撮ってる、ってことに」
「ふうん」
「おれ、自分の写真を褒めてもらうのはもちろん好きなんだけどさ」
私たちの隣を大きなトラックが走り去った。影は長く伸びてすごい早さ縮んでいった。
「でも、『君の写真は普通だな。こんなの誰にでも撮れる』って言ってきた人がいて。おれ、その言葉に、腹が立つとかそんなことは全くなくて、ただただ、安心したんだ、すごく。あー、おれ普通のことをやってきたんだ、これはみんなと同じ普通の写真なんだ、って。おれ、カメラを仕事にできてもできなくても、普通に、写真を撮り続けたい」
柳は、突然歩くスピードを上げたかと思うと、振り返ってシャッターを切った。炊かれたフラッシュはきっと、私の後ろに色濃い影を産み落とした。
「伊田は、なんでたまごを作ろうと思ったの」
「え?」
「ずっと気になってたんだ。なんで伊田はたまごの彫刻を作るの?理由はあるの?それは必然なの?初めて会ったとき、たくさんのたまご型の彫刻をバザーで売っていたけど、伊田は将来、たまごをつくって、それを仕事にしてご飯を食べていきたいの?」
街灯の手前で立ち止まった柳の表情は、逆光でよく見えなかった。
「たまごでご飯って、なんだか料理の話みたいだね」
「そうだね」
「さっき食べたばっかりなのに、おなか空いちゃうね」
「そうだね。で、どうなの?おれ、真剣に訊いてるんだ」
ゆっくり歩いていたのに、すぐに柳に追いついてしまった。私は、質問の意図を考えながら、立ち止まって答える。
「わかんない。たまごを作って売るだけで、お金を稼げるとは思ってないけど、夢中で作ってたらたくさんできたから、あのときもフリーマーケットをやるのを知ってなんとなく売ってみたの。将来何をやりたいのかも、全然わかんない」
柳はきっとこちらをまっすぐ見つめている。柳の顔が暗い影になっていてもそれがわかる。
「そっか。たまごであることに、なにか理由は?」
「うーん、深い意味とかはないけど、作ってみていちばんしっくりきたのが、たまごだったからかな。曲線を集中して削ってると、何も考えないで済むんだよね、なんとなく」
「なるほど、手を動かすのがストレス発散になるとか?」
「うん、そんな感じが近いかな」
「じゃあ、特別な理由はないんだ」
「うーん、そうなるかもね、よくわかんないけど」
そっか、うん、なるほど、ありがとう、と言って、柳はまた前を向いて歩き出した。私はその後ろについて歩いた。歩きながら、前を見つめたまま、柳は言った。
「今度、たまごを作ってるところ、見せてよ」
「え?木を削ってるところとか?」
「うん。だめかな?興味があるんだ」
「うーん、べつにかまわないけど、近くに人がいるとうまく作れないかもしんない」
「邪魔はしないからさ」
「わかった、見てるだけなら」
「やった」
前を歩く柳の背中越しに、なんとなく空気が柔らかくなった気がしたので、私は安心した。柳はときどき何を考えているのかまるでわからなかったけど、それすらも空気に溶けてしまうくらいに、病的に優しい雰囲気をまとったひとだった。
柳に、今日は月が大きくて綺麗だね、と言ったら、優しさで編み出した私のための声色で、うん、そうだね、と言ってくれた。私は柳というひとが、やっぱりとても好きだと思った。黄色く丸い月は、平等に私たちの影をつくった。