さりげなくS57 in TOKUSA


はじめに

 音楽と過去の思い出がセットになって、記憶の片隅にしまわれていることがないだろうか。

 例えば、運動会の徒競走の思い出は、オッフェンバックの「天国と地獄」がセットになっていたり、プロコルハルムの「青い影」が流れると、中学生の時の掃除の時間を思いだしたり(これは作者の中学校で流れていた)と、音楽と思い出を結びつかせて記憶の倉庫に保管している数は、長く生きれば生きるほど多いのではないだろうか。

 その記憶を思い出すと、頭に音楽が流れてくることもあれば、音楽を聴くことでその記憶が蘇ることもある。思い出す時はいつも突然で、ラジオから曲が流れてきたタイミングや、子どもが学校から持って帰ったお知らせのプリントを目にした時など、様々だ。

 私の中で、音楽と過去の思い出のセットで最強のものは、マッチこと近藤真彦が歌う「ギンギラギンにさりげなく」という曲と、小学1年生の時の下足箱である。いや、曲が流れなくても、マッチをテレビや雑誌で見ると、「ギンギラギンにさりげなく」が思い出され、小学1年生の下足箱の記憶へ誘導する。それはもう強烈で、50年近く生きてきても、その記憶は薄れない。時間が経つほど、「ギンギラギンにさりげなく」という曲と小学1年生の時の下足箱の思い出は、強く、濃く、私の脳裏に思い浮かんでくるのだ。多分、本来のものより、より誇張された記憶が頭の中で踊る。

 「ギンギラギンにさりげなく」という曲の作詞をしたのが、「伊達歩」こと作家の「伊集院静」ということを知ったのは、職場の昼休みに読んだ作家の本であった。

 「へ~、作詞もするんだ」ぐらいにしか思わず、仕事でいろいろと悩んでいた私は、ひたすら、伊集院先生の本を読み漁った。どのように不条理な社会を生き、耐えていくか。伊集院先生の言葉をもらい、気合を入れて生きてきた。勝手に、どこか近いところで、いつか会えるかもしれないと期待もしていた。私と同じ山口県出身の伊集院先生だ。お正月やお墓参りなど、実家に帰ってくることもあるだろう。偶然会える可能性は無きにしも非ずと思っていた。別に、話をしたいとかそんなことではないが、自分の人生の苦境を乗り越えるための言葉をくれる先生を少し見てみたいと思っていた。でも、それは出来なくなった。令和5年11月24日に伊集院静は亡くなったのだ。

 亡くなってから、図書館で読んでない先生のエッセイを借りて読んだ。生きている先生に会えるのではないかと思っていたから、突然の訃報に動揺して、先生の言葉を聞き(読み)こぼしてはならないと思った。その中にも、マッチの曲を作詞したことが書いてあった。だから、伊集院先生のことを思うと、マッチが思い出され、「ギンギラギンにさりげなく」が頭に流れ、小学1年生の下足箱の思い出へとつながるようになってしまった。

 私の小学1年生の思い出は、あの子の「ギンギラギンにさりげなく」の歌声が必ずセットになっているのだ。

第1章 昭和57年 4月

〇 入学式

 小学校に入学する前に、何度もかるった(山口弁で背負うの意)赤いランドセルは、しっかりとした硬さがあって、幼稚園の時のよれよれとしたビニールの黄色いポーチとは比べ物にならないくらい、私には高級品に思えた。今年徳佐小学校に入学する子どもの中で、一番大きな体格の私の背中からも、赤いランドセルははみ出して、その存在感を放っていた。そのランドセルに負けまいと思ったのか、いつもは地味な母親が、真っ赤なスーツ姿で入学式に挑んだ。これには、いつも母親のオシャレには無関心の私でさえ、目を見張った。服装だけでなく髪型も、「こっちの方が楽だから」という理由で、ストレートのショートヘアで、中学生のバレー部員のような若々しさがあったのに、いきなり「ちびまる子ちゃん」の母親のような、強めのくりくりパーマに変身しての入学式出席だった。「何かあったのか?」小学1年生になったばかりの私でさえ、そう勘ぐったので、周りの大人たちも何か思ったに違いないが、何事もなかったかのように、入学式の集合写真を撮影した後、解散し家路についた。いつものストレートヘアのほうが自然で好きだったのに、本人は髪が顔にかかって邪魔だったらしい。髪が猫っ毛で柔らかく、パーマがかかりにくくて、強めに当てないとパーマがかからなかったので、くりくりパーマとなったのだ。たいてい、入学式の思い出は桜の花を思い出すのだろうが、私は、母親の突然の変身劇に、桜の花びらがどうだったとかあまり記憶がない。当の本人は、髪が目にかからなくなってよかったとだけ思っているようで、私の否定的な感想を意に介さない。多分、これが、私の母親のおばさん化の最初の大きな1歩だったのだろう。それから20年以上は、このリアル「まるちゃんの母」の髪形を続けるのである。

〇 集団登校

 徳佐小学校への登校は、最年長を班長として、各地区ごとに集団を作って登校をしていた。一番年長の者で、班長を仰せつかった者は、黄色い交通安全の旗付き棒を学校から賜り、みんなを引き連れて登校する。私が通う地区では、小学6年生のフミエちゃんが皆をまとめて小学校へ登校させた。

私の家は、小学校まで徒歩で2.5kmあり、小学生の足で歩くとまあまあ時間がかかる。それなので、小学校とは反対方向ではあるが、近くにある山口線の鍋倉駅まで歩き、そこから電車に乗って小学校へ登校していた。近いと言っても、リンゴ園横のうっそうとした森の中の小径を通って、1.5kmは歩かなくてはならない。生来動きの鈍い私が、電車の時間に間に合うように毎朝歩いていくのは、地獄だった。班長のフミエちゃんが、電車に乗り遅れてはならないと、

「早く歩け!トロいんだよ!」

と、毎日のように叱責する中、1人小走りしながら集団について行くのだ。私自身も、「トロい」と言われるのは嫌だったので、がんばって急ぐのだが、頑張れば頑張るほどうまくいかず、ついには足まで痛くなる始末。うまく走れないのでどうしたらいいか悩んでいると、

「スキップするようにでもして急げ!」

と、鬼の班長からの指令が下され、半泣きで、痛い足をかばうようにスキップしながら学校へ通った。

 集団登校は毎日だが、下校は学年によって授業数が違うのでばらばらだった。しかし、水曜日と土曜日は、職員会議などの都合で一斉に下校した。特に水曜日は集団下校とされ、朝だけでも嫌なのに、帰りも鬼の班長の顔を見なければならず、早く帰れる日なのに全然うれしくなかった。土曜日は、お昼までで同じ時間にみんな帰るのだが、絶対フミエちゃんの顔が見たくなかったので、幼稚園から帰る弟を連れて、フミエちゃんから離れて家に帰った。遠くからフミエちゃんにヤジられても無視して、弟と一刻も早く帰ろうと、朝よりも早足で歩いた。鈍い癖に生意気な態度をとる私を見て、フミエちゃんも気に入らなかったのだろう、私に「トロロ」というあだ名をつけて、毎日のように叱責しながら学校へ通った。電車に乗り遅れたら、学校に行けないという責任感からだろうが、入学したての私は、学校に通うのが4月から早くも嫌になっていた。

〇 歌の思い出

 その日も、朝から叱責されて、嫌な気分で下足箱から上履きを出して履こうとしていた。一年生の下足箱は、校門から入ってシュロの木が囲む砂利道の庭を通って、左側の1階にあった。木製の簡単なつくりの下足箱の前には、これまた年代物の木製のすのこが敷いてある。その上に、つま先が赤いゴムで覆われた上履きを、下足箱から取り出して置いた時であった。

 ♪ギンギラギンにさりげなく~ そいつがお~れのやり方~ ♪

 後ろからノリノリの大きな声で歌いながらスキップしてくる子がいた。

 ♪ギンギラギンにさりげなく~ さりげなく~生きるだけさ~♪

 びっくりして振り向くと、同じ1年生のエイ子さんだった。エイ子さんは、私に挨拶することもなく、もしかしたら目にも入っていなかったかもしれない。

 ♪アイ ゲッチュ ベイベー 

アイ ニージュ ベイベー 

アイ ウォンチュー ベイベー ライオン!♪

音程があっていようがいまいがお構いなく、ノリノリの絶好調な表情で、下足箱から上靴を取り出すと、履いて、少し赤色があせたランドセルを揺らしながらスキップして、すぐそばの1年生の教室へ入って行った。その後ろ姿を、少しの間、ポカンと見送っていた私は、予鈴に我に返って、急いで教室に入った。

 エイ子さんは、幼稚園から知っている。というか、徳佐小学校へ入学する子は、ほぼすべて徳佐幼稚園から上がってくる。親の都合などで、別の場所へ引っ越さない限り、同じ幼稚園から同じ小学校へ上がる。田舎の町で、地域に一つの幼稚園・小学校しかなく、町みたいに、私立の小学校をお受験するなどといった選択肢はない。エイ子さんという存在は知っていたが、あんなに大きな声で、ノリノリで、しかもスキップしながら学校に乗込んでくる子とは知らなかったので、「いったいどんな子なんだ?」と、興味を持って見るようになった。

 私といえば、所謂「内弁慶」といった性格で、幼稚園も年中からの入園で、みんなより少し遅れて入ったせいもあるのか、大きな体に似合わず、大人しく、目立たないように心がけて生きてきた。だから、幼稚園での特定の親しい友達がなかなかできずに、女の子たちがおままごとをするのや、男の子たちが戦隊ヒーローごっこをするのを遠目に見ながら、ブランコに乗ったり、遊具についている洞窟のような穴の中に入り込んで、石でもって壁を削りながら、火薬のような匂いのする粉を集めて、不穏な笑みを浮かべていたり、とにかく、同年代の子とは一緒に遊ぶことが少なかった。その代わり「内弁慶」なので、家に帰ると、弟を引き連れて近所へ遊びに行き、ドッジボールや鬼ごっこをして暗くなるまで遊び倒していた。そんな感じだったので、エイ子さんと話したことはほとんどなかった。

小学生が入学すると授業でよく歌うのが、「一年生になったら」という曲だ。

 ♪ 一年生になったら 一年生になったら 友だち100人できるかな

   100人で食べたいな 富士山の上でおにぎりを ぱっくん ぱっくん ぱっくん と ♪

 朝行くと、担任のマツシマ先生が得意のオルガンで弾いて、私たちに歌わせる。この歌を歌う時、いつも、

 「100人も友だち作らないとならないのかな」と気が重くなり、その後で、

 「富士山の上で食べるおにぎりは格別だろうな」という唾液腺を刺激するような想像が働く。

 100人も友だちを作るのは、ひと学年30人足らずの徳佐小学校では難しいだろうと、現実的なことを考えながら、富士山に持っていくなら、おにぎりの具材には、必ず鮭を一つは入れたいと考え、毎度毎度歌う。

今朝ノリノリで、マッチの「ギンギラギンにさりげなく」を歌っていたエイ子さんはどうしているだろうかと、席の方を見てみると、朝ほどの勢いはなく、それでも楽しそうに、

♪ ぱっくん ぱっくん ぱっくん と ♪

 と腕を振って歌っていた。

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