映画短評第三回『俺たちホームズ&ワトソン』/「名探偵再解釈」の流れに乗ろうとした泥船
パロディを成立させるには、まず本家の美点や構造を踏襲することが必要だ。戦争映画なら悲惨さを、ホラー映画なら恐怖を、ミステリー映画なら謎解きを。それぞれの特色を敬意とともに活かし、ときに茶化すことで笑いを生む。ただ役者に衣装を着せ、モノマネをさせればいいというものではない。
名探偵シャーロック・ホームズのもとに、「宿敵モリアーティ教授が女王を暗殺しようとしている」との知らせが届く。ホームズは相棒ワトソンとともに捜査を開始するが、行く先々で醜態をさらしてしまう……。
フェレル&ライリー、人気コンビによるコメディ映画だが、その実態は二人の顔芸とおどけ芸に頼りきった安いコント集だ。個々に独立した弱々しいギャグの連続、汚れの無いロンドンの光景、無駄に大音量で鳴り響くポップス……。衣装と小道具だけ凝っているのが、バランスの悪さを余計に強めている。
ミステリーの物語進行を完全に放棄し、謎解きが後付けの説明でしかなくなっているのも惜しい。登場人物たちのセリフや黒幕の動機、あからさまに過ぎる政治的主張が、事件の解決にまったく繋がらないから、怒りさえ感じる。
ホームズ作品特有の構造やキャラクターの面白みも、茶化せるネタも豊富にあるのに、それらをただの背景にしてしまい、悪役俳優レイフ・ファインズもぜんぜん痛い目を見ない。せめてヴォルデモートくらい盛大に散って欲しかった。
何が笑いを生み、何が面白さを生むか、それを考える機会は与えてくれる。最近のコメディ邦画と比較してみるのも面白いかも。凄く似ているから……。
(文・谷山亮太)