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映画短評第二十一回『女王陛下の007』/人間になる007

 酒、女、銃……。ショーン・コネリーから始まり、幾人にも継承された007の「ダンディズム」は、常に男性中心主義的なサディズムやミソジニーと表裏一体だった。
 ダニエル・クレイグが同役を襲名して以降、その歪んだヒーロー像は解体され、より“人間的な”キャラクターに組み直されていく。しかしそれ以前に、007を人間にしようとする試みはなされていたのだ。

 イギリス諜報部のスパイ、ジェームズ・ボンド=007は、世界的犯罪組織スペクターの首領ブロフェルドを追っていた。その過程で彼は、富豪の娘テレサと出会う。交流を深めていった二人は、期せずして共闘することとなるが……。

 シリーズ6作目となる本作の主演は、ジョージ・レーゼンビー。コネリーから彼への交代により、007は文字通り人が変わる。思い切った方向転換、新しいヒーロー像が模索された作品であり、さまざまな面でコネリーとの対比を見ることができる。そして意図されたどうかは不明だが、その多くは、前5作にあったミソジニックな側面を解体しようとしているようにすら見える。
 007は、女性をベッドに誘って手なずけるか、容赦なく平手打ちを食らわせることで情報を引き出してきた。本作の彼も、冒頭でヒロインであるテレサにその両方をしかける。今までであれば、情報を引き出し、一夜を共にした女性はそこで物語上の役割を終え、007は一人立ち去っていく(そして大概女性は殺される)。しかし本作では、“職務”を遂行してご満悦の007は、独りベッドで目を覚ます。女性に取り残される007、この時点でコネリーからのイメージが崩されている。もちろん、007は他の女性ともベッドを共にする。持ち前のハンサムな顔とロマンチックな言葉を用いて迫っていくのだが、テレサ以外の相手には同じ口説き文句をくり返し使う。その様子には、女好きの個人としての遊戯性は薄く、むしろ職務遂行の手段としての単調さ、もしくはボンドが抱いている現状への不毛さが反映されているようでもある。
 本作には、ボンドがイギリス諜報部の職を辞そうとする場面がある。ブロフェルド追跡の任務から外されたことに対する恨みからの行動だったが、テレサとの交流を経て、動機は彼女への愛情に変わっていく。一人の女性を愛するボンド。それが描かれるがゆえに、従来の007的振る舞いに業務的なしらじらしさが生じ、女性に対する抑圧的な態度は悪役が担うこととなる。世界各地から“病気の治療”と称し集められた女性たちを洗脳して利用する敵組織と、それに立ち向かうボンド。この構図は、ボンドが今まで表象してきた露骨なミソジニーを、自ら破壊していくというものにも捉えることができる。
 ブロフェルドを倒し、ボンドは遂にテレサと結婚する。義父の台詞には家父長制による女性への抑圧が残る一方、職務として正当化された女性への暴力からボンドが解放されたという事実は、1969年当時としてはかなり大きな進歩だろう。こうして007はジェームズ・ボンドという一人の人間になった。しかし本作には、とある結末が待っている。何故そのような結末が用意されたのかにはさまざまな理由が考えられるが、その悲劇的幕切れには、007だけが負う因果、呪いが刻印されている。シリーズの流れを追っていただければわかるように、次作『ダイアモンドは永遠に』では、ショーン・コネリーが一度限りのカムバック(後年、番外編として『ネバーセイ・ネバーアゲイン』に主演している)を果たし、007は本来の遊戯性と冷酷さを取り戻すこととなった。この時点では誰も、007が人間になることを許してはいなかったのだ。
 50年以上にわたり25作品が作られた本シリーズは、007を各時代に適応させていくことで生き残ってきた。現行の、始まりから既に人間だったクレイグ=007の物語は、『女王陛下の007』で提示された人間になることへの願望が、遂に人々に許されたことの証左なのかもしれない。今は007でなく、“ジェームズ・ボンド”が求められる時代なのだ。
 (文・谷山亮太)

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