映画短評第十九回『猿楽町で会いましょう』/この街で破局を迎えることについて
タイトルの通り、映画『猿楽町で会いましょう』の舞台は渋谷区である。新米のカメラマンである小山田修司(金子大地)と読者モデルの田中ユカ(石川瑠華)との恋愛は、2012年に完成した街の新スポットである渋谷ヒカリエ前から始まる。その後の展開も、渋谷駅歩道橋、猿楽町交差点等のロケーションをこの映画は選んでいる。
小山田は写真家であるから、モデルで恋人のユカをたびたび写真に写す。そうした写真は彼女のインスタグラムのポートレートとして使われるものであり、それらを見ると、彼女の表情にピントが合わせられ、背景はぼかされていることがわかる。さらにカメラを介さず小山田の主観ショットで捉えられる場合もまた、ユカの背景にピントが合うことはない。こうしたショットが、彼女以外のものが眼に入らない小山田の心情と合致していることを考えるなら、それは恋愛映画としてまったく適切なショットだと言えるだろう。しかし、背景がぼけることは、すなわち舞台となるこの街にも焦点が定まらないことを意味する。つまりこのとき、映画は「猿楽町」や「渋谷」といったトポスが持つ固有の意味をもぼかし、希薄化させているのである。
そもそも渋谷という街に現在、若者を引き付ける文化的磁場は存在するのか。「渋谷系」の名前を出すまでもなく、たしかにゼロ年代終わりごろまで、それは確実に存在したのだろう。ここで思い出されるのは、渋谷の映画文化にある時期まで貢献していたシネマライズが閉館したのが2016年だったことである。さらに、ミニシアターの代表的存在であったアップリンク渋谷が、元従業員たちによるパワーハラスメント告発により今年閉館したことも記憶に新しい。小山田が自転車で夜に疾走する明治通り沿いにあるのは、2010年代初めから路上生活者を排除した上に建てられた、あのミヤシタパークである。はっきりとピントを合わせるには、この街はあまりに醜悪だ。
彼ら若者の恋愛は、映画においてついに成就されることはない。破局という結末こそ、現代の渋谷にはふさわしい。
(文・中島晋作)