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散文-『マンダロリアン』終了に寄せて- 僕のスター・ウォーズとの別れ

 スター・ウォーズ(以下SW)とは、本当に長い付き合いだ。
 両親にレンタル店で旧三部作のVHSをくり返し借りてもらい、沖縄旅行中に『クローンの攻撃』のパンフレットを失くし、祖父を劇場へ無理に連れ出して『シスの復讐』を見せてもらった。あの頃は単純だった。表現やデザインに対する批評がなく、ただただ作品の持つ雰囲気を楽しんでいただけだったから。周りの大人が、あるキャラクターを嫌おうと、戦闘機の形状に文句を言おうと、僕はスクリーンの向こうにある世界が大好きだった。
 年月は過ぎ、ちょっとめんどくさい奴になっていた頃、2015年の冬が来た。僕はSWの新作見たさに、大学受験を推薦で早々に済ませ、何にも邪魔されることなく、再びあの世界にドップリと浸った。その帰りに友達と、映画の内容について言い合いになり喧嘩別れしたのも、今となってはいい思い出だ。思えばそれこそ、SWという磁場(ファンコミュニティ)に捕まっている何よりの証拠だろう。
 そしてなんやかんやあり、2019年の冬、怒りと失望とともに、僕はSWと縁を切った……つもりだったが、TVドラマ『マンダロリアン』が始まってそうもいかなくなった。めんどくさい議論を絶え間なく繰り返していた、自分のようなファンに対して、同作は一つの最適解を示してくれた。
 クリエイターのジョン・ファブローとデイヴ・フィローニがもたらしたのは、見たことある世界での見たことない奴らの冒険、シリーズの伝統からはみ出ない古くて新しい描写の数々。SWが本来持っていた再発見の喜びを、古参のファンのみならず、大作に馴れすぎた若い観客にも思い出させてくれる。筋金入りのSWオタクが放った、僕ら(ファン)の理想のSW。それが『マンダロリアン』だった。
 何より僕は、フォースやライトセーバーに頼らない、アウトローたちの泥臭い活躍が見れたことにこの上ない興奮を覚えた。選ばれし者の冒険は、着地がどうあれ終わったのだ。血統で語られた物語が、その狭い行動範囲から脱し、急速に拡大し始めた感覚が確かにあった。そしてその興奮を、他のファンと共有できていることが嬉しくてしょうがなかった。
 だが今、僕は孤独の中にいる。『マンダロリアン』が一旦の終幕を迎え、世界中の人々が狂喜乱舞している状況が、微笑ましくまた喜ばしくも、僕だけは失望を感じている。宇宙の法則に選ばれることなく、自らの道を歩み、先に相手を撃ち抜くことで生き残ってきた者たちの物語は、結局選ばれし者の伝説の引き立て役でしかなかった。ファンの不満を消し去る“嬉しいサプライズ”のため、それまでの十数話で行われた冒険と感動が全てかき消されてしまったのだ。
 結局、クリエイターたちもファンだったということだろう。いかにバランスを取り、構築済みの世界で新しいキャラクターの創造という難業に成功しようとも、伝説の前ではそれすら放棄する。ファンが愛するキャラクターの実写化/復活/再登場……。たとえファンが望んだ正しい展開だったとしても、そこから距離を置き、独自の道を探求するのが、同作の目的だったはずなのに。作品がもたらした宇宙の拡大が、既存の要素を盛りに盛った“ファンの願望”でまた収縮していく様子は、それを楽しいと思ってしまっているからこそ、見ていて本当に複雑だ。
 構造の破綻に作り手を目指すものとして落胆しながら、一方ではファンの一人として手に汗握る。世間が絶賛に染まっているなか、僕の中でだけ賛否両論の分断が起こっている。その状況に、僕は酷く疲れてしまった。一区切りついたこのタイミングだからこそ、愛してやまない世界から離れるべきだろう。僕自身の為にも、今のSWを愛している人のためにも、こうして時間を置くのは必要なことだ。
 いつかあの世界に戻ってこれると、信じたいとも思う。だが、これからも絶え間なく続いていくSWという銀河ドラマを、また愛せるという自信は、今の僕にはない。ただこれだけは分かる。大会社が利益を求めて作った作品と同じくらい、ファンのものになりきった作品に未来はない。

(文・谷山亮太)

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