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映画時評第八回『mid90s ミッドナインティ―ズ』/青春映画のあり方について

 ヌーベルヴァーグという運動を乱暴に要約するなら、それは当時の若者の「現在」を活写した映画運動だったといえるのではないか。ゴダールは「勝手にしやがれ」と吐き捨て、トリュフォーは「大人は判ってくれない」と主張した。そして、ヌーベルヴァーグの後に続くように、アメリカの地でもまた、若者をフィルムの主軸に置いた映画が量産されるようになる。いわゆるアメリカン・ニューシネマがそれである。
 これら映画群におおよそ共通するのは、その敗北主義的なムードであろう。テレビの躍進による映画産業そのものの凋落、あるいは第二次世界大戦やベトナム戦争に反対する新世代の批判、あるいは落胆が、そのような空気感を醸成した一因である。青春とは敗北だ、とでもいうようなそれら映画は、いつの時代に生きる若者にも届くだろう普遍性を備えている。もちろん「勝利」を描く青春映画もあってしかるべきだろうが、自らの人生を肯定するのか否定するのか、どちらに軸足を置くのかを見れば、その映画が製作された時代の空気感を感じ取ることができるだろう。
 ジョナ・ヒルによる映画『mid90s ミッドナインティーズ』は、タイトルからも明らかなように、時代設定を90年代半ばに置く。舞台はロサンゼルス。13歳の少年スティーヴィーと、彼を取り巻くスケートボード仲間との日常を描く青春映画である。
 家族とうまく関係することができず、スティーヴィーはスケートボードそのものや、それをきっかけに出会った仲間たちとのつながりの中に自らの人生を見出してゆく。しかし、仲間の一人レイから言われるのは「自分たちとつるんでいても未来などない」という言葉なのである。学業をおろそかにし、今という時間をただ浪費するだけの人生。そのような人間にスティーヴィーは囲まれている。そんなところにいては自分の人生を棒に振るだけだと、少年は友達から言われるのである。
 『mid90s ミッドナインティーズ』の面白さは、少年たちが置かれた閉塞的な環境や、それぞれの登場人物が持つ絶望を描いているにもかかわらず、不思議と画面に「明るさ」が宿っていることにある。その要因として、スティーヴィーが自宅で兄とプレイするテレビゲーム、HIPHOPのCDやTシャツ、そしてなによりスケートボードといった90年代を象徴するアイテムが、少年たちを絶望から救い出す機能を与えられていることが挙げられる。この絶望と救いの混在もやはり、今の時代を包み込むひとつのムードなのであろう。(文・中島晋作)

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