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前略、原田宗典先生。あなたに救われて、私は無事に物書きになりました。



「ライターさんってどんな本を読んでいるんですか?」
とたまに聞かれます。

正直、起業家のセミナーや集まりなどで聞かれた時、
相手の読書歴がわからないと答えづらい。
自分が好きな本を「…そ、そうですかふーん」と言われても切ないですし。

それを知るべく「最近どんな本を読みましたか?」と訊ねるのですが、
だいたい「こないだはホリエモンのを読みました」
「会社の組織作りの本を読みました」という答えが返ってきます。

辛口で悪いが、それは読書ではない!ただの情報収集!

そう叫びたいのをいつも我慢しています。

やはり「読書」というのは「小説」(百歩譲ってコラム)だと思うわけです。

そんな私が、人生で一番影響を受けた作家さんは、原田宗典先生。
今日は私の勝手な原田愛を書きます。

1.昭和と土のにおいがする文章に惹かれ

原田先生は私より10歳年上。
私が先生の作品を読み始めたのは、社会人になった頃。22、3歳の頃でしょうか。

先生はそりゃあもうすごい数の連載を持っておられました。
トップ画面にあるように、現在所有しているのはほんの一部。
お金があまりなかったので、全部文庫本ですが、図書館で借りたのを加えると、もっと読んでいると思います。

先生のコラムは電車で読んだらNGなほど。
「あるある!」と言いながら腹を抱えて笑っちゃう。

中でも一番覚えているのは、先生が「不良になりたい」と決意し、
とりあえず学生鞄をぺっちゃんこにしようとした日の出来事。
しかし、カバンを潰そうと思うもなかなかつぶれず、「革を柔らかくするために煮よう!」ということで、お風呂のガスを最大に熱湯のようにし、カバンを投入してふにゃふにゃに。

すると、その晩、お風呂に入った父親が
「おい、なんだか風呂がウシくさいぞ」とつぶやく場面。

これは妹とも何度も何度も話し、
「あの一文は傑作」と、そのたびに笑っています。

先生は東京生まれなのですが、思春期を岡山で過ごし、
その後早稲田に進学、コピーライターを経て小説家になりました。
コピーライターをされていたからこそ、他の小説家とは違うワードを持てたのかもな…と、私は仕事を始めてから思いました。

感受性の高い高校時代を田舎で過ごしたからか、
先生の文章からは、草の香りと、土の香りと、風の香りがします。
ほとんどの道路はコンクリートになったけれど、
夏には夏の匂いがし、冬には冬の冷たさを身体で感じた幼い日のように、
先生のコラムを読むと、行ったこともなかった岡山が、とても親しいものに感じられるのです。

コラムのオススメは新旧含め、書き切れないほどありますが、
書き切れないので小説のオススメを書きます。

2.絶対読んで欲しい。ある日突然、においがしない!
長編傑作「スメル男」

こちらは長編小説。
大学時代「原田先生が好きなの」と公言していた私に、友達が、
「じゃあスメル男は読んだ?」と聞いてきたので、読んでないと答えたところ鼻で笑われ「もぐりじゃん」といわれ、急いで読みました。

その後再読、先日も3回目を読み「あーすごいなあ」と思ったところです。

こちらは、ある日突然嗅覚を失われた青年の話。

この作品は代表作でもあるため、そりゃあもう素晴らしいのは言うまでもないのですが、すごく印象深い出来事があり、強く覚えているのです、

実はこれを読んだ後、あろうことか当時先生のサイトにあったBBS(懐かしい!)に送りつけたところ、

なんと!
先生からお返事が!

もう、本当に驚いたし、嬉しかったです。

まあ、今考えると単なるコメ返なのですが、90年代後半はネットをする人も一握りで、ダイヤルアップして立ち上げたサイトに「ああ、電話代がかかっちゃうから早く早く」と自分をせかしてお手紙を書いたことを覚えています。

当時は、ライターになる直前。
前述のようにダイヤルアップに急かされて、先生のお嬢さんが大きくなられたということに驚いたことを書いたとともに、あろうことか
「私もスメル男のような小説が書きたいです」と書いてしまった私。

でも先生の返事はとてもお優しく、
「そうですね●●(お嬢さん)も、もう高校生ですから。スメル男はGACKTくんがすすめてくれて、こないだ重版がかかりました」
というお言葉のあとに、

「もうすぐですよ。
もうすぐ書ける様になります。
そうしたら、マキジャクのことも書きたくなるかもしれませんね」と。

当時は「マ、まきじゃく??」と謎だらけで、今考えても先生の真意はわかりません。
でも「さすがコピーライター! 斜め上から来るなんて先生らしい♥」
とわかった気になっていました。

推し活って本当盲目ですよね~

3.あまりにショックに、半日泣き続けたあの日

知っている人は知っていると思いますが、先生は一度警察のお世話になりました。通常は「ハイになる方」か「眠くなる方」のどちらかを所持するそうですが、先生は両方持っていたそうです。

そこに、なんともいえない先生の絶望感を感じました。
いや…出来心だったのかもしれないけれど。

知ったのは、原稿を書いていた時に見たネットニュースでした。

仕事やプライベートで忙しくなり、読書から遠ざかっていた当時、
先生の名前を久しぶりに見て、えっ!となり、
愛読していた日々が急によみがえり、
気がつくとパソコンの画面が、どんどんにじんでいきました。

とにかく、ショックだったのです。
なんであんなに泣き続けたのか、自分でもわからないのに、ずっとずっと泣き続けていました。

まず「なぜ」という気持ちがあり、
「私の青春が…」という気持ちになり、
その後はただただ無力というか、悲しかった。

結果、半日も泣き続けました。

これは、本当に私が瞬時に思ったことなのですが、今では周知されているものの、当時はまだ、原田マハさんが先生の妹さんだと知っている人は少なく、公表もされていませんでした。
しかし、ある小さな記事でそれを知った私は「いつも先生のかたわらで泣いていたゆきこちゃんが、先生と同じ職業に?」とすごく複雑だったのです。

先生は私から見たらとんでもなく勉強ができる方ですが、コラムなどによれば、ご本人はそうは思ってらっしゃらず、モテモテの人生でもなく、何よりお父さまのことで一家がバラバラになり、割と経済的にも苦労されたそう。
そんな中で、「小説家として身を立てる」ということは、幼い頃からの夢というか、よすがだったと思うのです。

しかし妹さんはあっという間に、その経歴からも話題となり、小説は次々ドラマ化や映画化。人気者になりました。
もちろん90~00年代に先生は大活躍され、ポルシェも買ったし、小淵沢に別荘も買ったし、モテモテの時期もあったと思う。

でも、マハさんのことを知った時、私は本当に「私ごとき」なんですが、マハさんがどんどん売れていくのを見ながら、勝手に先生のことを案じていたのです。

そしてこの事件。本当は何があったのか、誰にもわかりません。
マハさんは「もう兄を一人にしない」と裁判でおっしゃったそうです。

ここからもう20年くらい経ち、最近は先生もたびたびXでつぶやいていらっしゃるし、コラムを書かれたりと健康な日々を送られているご様子。

でも、マハさんに関しては、どうしても複雑な思いがあります。
「絶対的に兄オシ」である私は、未だに一冊も読めないし、これからも読まない気がします。

ちなみに…こちらも勝手な話ですが、先生が立ち上げた「東京壱組」という劇団についても、この事件後に「相棒」の三浦刑事役と務めた、団員の大谷亮介さんが相棒を降板。これも関係があるのだろうか…と思ったり。
そんな風に憶測で話すのは、本当に良くないんだけど、心配が募ると、人の想像力というのはどんどん暴走していくものですね。

さて、本当に原田チルドレンだった私は、先生と勝手に中身の濃い日々を過ごしていたので、何というかリズムが身体にしみついていて、先生のコラムなどによく出てくる
「ハニワ顔になった」とか
「○○なんだから実際」とか
「責任者出てこいっ!」というのは、ついつい使ってしまいます。

いやはや、好きな人のことはどれだけでも書けますね。
このブログ15分くらいしかかかっていません。
好き勝手なことばかり書いたので、先生に見られたらやだなあ~
まあ、愛情は伝わるか。

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