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短期間で命に係わる二つの大病を経験しても、「ぜんっぜん平気、楽しんでやる!」なんて思っていた私の心が、コロコロコロと坂道を転がるように落ちていったのはなぜ、と

乳がん告知と、急性の肺血栓塞栓症


いろいろなところに繰り返し書いていますが、私は今年のお正月明けに乳がんが判明し、治療開始しました。
 
さらに7月末には急性の肺血栓塞栓症(肺塞栓)になり緊急入院。
 
半年と少しの間に、2度の、2つの大病に見舞われ、60歳という還暦の年に、なんということだ、なんという節目だと。
 
もう少し詳しく記録すると。
 
昨年末、12月23日、左胸にシコリを見つけて検査。

今年お正月明け、乳がんを告知され、3月21日に部分切除手術。

5月9日から6月12日まで、全25回の放射線治療のため毎日の通院。
 
7月10日からは、再発予防のため、抗がん剤Ts-1(エスワンタイホウ)の服用を開始。
2週間服用して、1週間休薬する「2投1休」を1クールとして、1年間18クールを成し遂げる予定でした。
 
服用開始から1週間経過した頃、とくに大きな変化はなく、私には目立った副作用がないのかな? それならよかったと。

しかし、10日目から急に強い倦怠感が出始め、立って何かしていると息苦しさを感じるように。
 
呼吸苦は発作のように襲ってきては、治まることを繰り返していたので、それも副作用的なものかと考え、そこに酷暑による体力減退や、続く更年期障害も加わって、などと様子見をしていました。
 
とはいえ、その呼吸苦が尋常ではないと感じるほど強いものになることを2回、3回と繰り返し、このどうにもならない苦しさをやわらげなければ辛すぎると、土曜日の夕方だったので、乳がん治療をしている病院の救急外来・ERへ。

呼吸苦をやわらげるための処置をしてもらえば、最悪でも一晩病院で過ごすだけで帰宅できるだろう、くらいに考えての受診でした。
 
ところが、診察と検査の結果、前述の肺血栓塞栓症(肺塞栓)を告げられ、しかも「肺塞栓は命が危ぶまれる重篤な疾患ですので、ICUに入って治療していきますからね」と。

迅速な血栓溶解治療が功を奏して翌日には一般病棟に移り、2週間の入院・加療の後に退院しました。


と、冷静に受け止めてみれば、「がん」と「肺塞栓」という、死と隣り合わせともいえる大きな疾患に襲われた今年の前半。
 
それなのに、私の精神状態は案外と平静・平安で、友人・知人、周りの人たちからも「大きな病気をしているのに、いつも元気な様子でいてくれて、なんかいいね」とか、「いつも前向きだよね」などと言われてきました。
 
実際、大病ではあるけど、人生において、こんな経験は稀にしかない、とてもいい経験をしているのだと受け止め、職業柄もあって、これを文章として記録して、闘病記を残していこうなどと考えていました。
 
乳がんのことは、SNSで公表し、友人・知人のすべてに知らせ、仕事で日々関わるメンバーにも知らせました。
また、地域の、自治会の役員を担っていることから、地域の人たちにも、言い方はおかしいかもしれませんが、乳がん罹患と手術や治療の経過を積極的に知らせてきました。
 
それは、黙っていることのほうが何らかの支障をきたし、仕事をしにくく、活動をしにくくしてしまうだろうと想定してのことです。
 
実際、それでよかったと今も思っています。
 
そんなこんなで、大きな2つの病気をきちんと受け止めて、冷静に、粛々と対峙しながら、これまた表現がおかしいかもしれないですが、この経験を楽しんでいこうとさえ考えていた私ですが、どういうわけか、仕事や活動に復帰することになった9月の初旬から、急に気持ちが重く、暗く、それに、精神的に、「切なさ」のようなものを感じる日々が続くようになってしまいました。
 
一時は、深い沼に落ちていくような感覚にさえなりましたが、そこからは脱出して、精神的な平静さはほぼ取り戻したものの、10月になり、間もなく11月を迎えるという最近も、以前の、何かドーパミンの作用があったかのような前向きな気持ちや、病気をいい体験と受け止めて楽しんでやろうという気持ちは復活しないままでいるんですよね。
 
この気持ちの、精神的なものの変転は、いったい何なのだろうと。


職場での病気への理解が思っていたものではなかったことに落胆
その切なさ、やはり本人にしかわからないことなのかな


一つには、外勤に出ている仕事先への復帰にあたって、保健師と産業医との面談があったのですが、それが、病み上がりの人間には少々きつい聞かれ方、言われ方に感じる「詰問面接」のように感じてしまったこと。
 
さらに、その場で、復帰にあたっての勤務中の注意事項の一つにもあった「水分補給やトイレ休憩をしっかり行うこと」ということに対して、後日、上司から、「トイレ休憩といっても、組織として動いている職場ということを考えて、あまりにも長い時間行くのは・・・」と言われ、私が長いトイレに行くことがあると言っている人がいるので、と。
 
その時点で、まだ私は復帰したばかりの、1日のうち3時間か4時間だけ出勤するという短時間勤務だったので、長いトイレどころか、勤務開始の前とに行っておけば、時間中に一度もトイレに行くことがない日がほとんどで、そんな心当たりもないことを言われても・・・、と相当嫌な気持ちを抱きました。
 
もし仮に、私が長いトイレに実際行っていたとしても、あるいは、私でなくても、病後復帰の誰かが、あるいは障害の影響で、一回のトイレ行きが長めになってしまう人がいるとしたら、今どきそれは、誰もが働きやすい職場として容認していいことで、誰かが告げ口のように言ってきたとしたら、「その考えは改めよう」と、私が上司なら逆のアドバイスをするよなと。
 
はぁ・・・、旧態依然とした何かが多い職場だけど、これは問題だなぁと、心暗くなったまま、明るさを取り戻せないでいます。


短期間に二度もの大きな災害に見舞われた能登半島と、同じく短期間に二つの大病に襲われた自分が重なってしまっていたことに、ゆるゆると気づいて


そしてもう一つ。
 
これは、けっこう精神的に大きな影響を受けてしまったことで、そのことに気付くのに、少々時間がかかってしまった自分に、あまり頑張りすぎたり、元気でいようとしすぎたりしなくていいんだよと言い聞かせいてるところです。
 
まどろっこしい言い方をしていますが、それはやはり、半年と少しの短期間の間に、命に係わる大きな病気を二つも経験したこと。
 
それが、今年の1月1日に大地震に、9月21日には大雨による大災害に見舞われた能登半島のことと重なってしまったんですよね。
 
輪島市や珠洲市の災害のニュースを目にするたびに、泣けて泣けて、ものすごく感情移入してしまう自分に気付きました。
 
お正月の大震災からの復興もまだまだという中での河川の氾濫や土砂崩れなどの甚大な被害。
 
私が乳がんのシコリを自己発見して、検査結果を待ったのは、昨年末からお正月を挟んでのこと。
 
酷暑が到来した頃からの抗がん剤の服用が始まり、ものすごい呼吸苦などの体調異変は、その副作用かと思ったら、そうではなくて、肺血栓塞栓症という診断で、「命が危ぶまれる状況にあります」とまで宣告されたこと。
 
振り返ってみれば、私って、けっこう過酷な状況にさられさていたんじゃん、と。
 
そして、これからも、まだ乳がんと肺血栓塞栓症の再発予防治療が続く身なんじゃん、と。
 
まあ、その事実をしっかり受け止めて、ものすごく貴重な体験をしている最中なんだと考えて、これからの人生を生き抜いて行こうと、今また、気持ちの上での元気さは、けっこう戻ってきていますけどね。


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