全てを放擲する(give up)
始めにお断りするとするならば、もしかしたら、捉え方によっては挑戦と真逆だと捉えられるものかもしれない。
しかし
私が挑戦して良かったこと。
それは
私の全てを放擲すること。
この現代社会は、何か目標達成しよう、自己改革しよう、社会貢献しよう。
何かの宗教の様な強制力に満ち溢れていて、それが正義であり、正しい答えの様に我々の生きる地球人類に蔓延していて、どこの世界に行っても逃れられないことの様に縛り付ける。
言語は人間特有の情報共有手段であり、ライターやスピーカー、教育者などはその情報に思考を支配されやすくなる。
更に強力なのは、SNSや動画など、視覚や聴覚による他者からの情報発信による自己意識の支配だ。
世界中にはフォロワー億人越えのゲーム配信ユーチューバーや、オンラインゲームコミュニティ、ネットフリックス、アマゾンプライムなどの映像配信、Xやインスタグラム、TictocなどのSNSなど、世界中がスマートフォン一つでつながっている「聖書=バイブル」の様な状態だ。
当然のことだが、スマートフォンはキリストでも、仏陀でもモマメッドでもアブラハムでもないから、ありとあらゆる善も悪も混在している。
更にそこにAIが加わった。Google検索など、命令を与えて情報を得るものは有効だが、それを自動処理するAIは、世界中のビックデータを巻き込み、集合的無意識を、徐々に動かし、無意識に情報にアクセスする人の意識を徐々に侵食して支配していくことになるだろう。
全てを意識的に放擲していく。
我々は思考に支配されているが、
されていない本質が実は存在する。
我々は、両親の精子と卵子が受精した時、プログラムされたホモサピエンスという地球人。
数百万年前、アフリカの一人の母から連なった子孫として、二足歩行をして知能によって文明社会を築いて生きている哺乳類動物であるという本質だ。
呼吸をすること、水を飲むこと、排泄すること、重力を感じること。動くこと、食べること、会話すること、愛すること、感動すること。。。
自分の思考を支配している全てを放擲して、地球の自然の一部としての自己認識に委ねてみること。
私は家族、職業、家、持ち物、過去、目標、夢、あらゆる執着と思うものを見つめて、放擲する挑戦をし続けている。
苦悩、絶望、無愛、孤独。
現代のテクノロジー社会は全てを与えてくれる様でありながら、生身の人間意識の本質的な救済は、結局己の内側にある意識感情によって決定されていることに気づく。
タキオンやニュートリノがより世紀を発見としてアインシュタインの見た世界を超越した時、或いは別の宇宙創造の真実がパラダイムシフトを人類の集合的無意識の常識になった時、
1000年先の人類もきっと、呼吸はして、水を飲んで、排泄して、朝日と夕日のリズムを、光と共に、恋愛をして、家族や社会を、地球の自然と共生しているだろう。
それを私は腹落ちできた。
挑戦して良かったことだ。