三沢に見た日本
6/9、青森県三沢市。福島・宮城・岩手・青森のそれぞれから、山守仲間が集まりました。BARとゲストハウスのオーナーであるノリさん(山守仲間でもあります)が、米軍三沢基地のお友達のDavidさん・Georgeさんと共に、私たちを案内してくれたり、夜までお付き合いくださって楽しませてくれました。そんな彼らとの時間を通して、グッと心に残った、三沢に垣間見た日本のお話。
□三沢基地内の暮らし
到着して間もなく、初めて三沢を訪れる私たちのために、ノリさんがお店を通じて親しくなった三沢基地の米兵さんと協力して、セキュリティの厳しい三沢基地の中を案内してくれました。あいにくこちら側には英語が得意なメンバーは一人しかいなかったのですが、ノリさんも通訳をしてくれましたし、そこで対応してくれたDavidさんとGeorgeさんも、とても親切に対応してくれました。
ゲートを入ると、こんなにも広かったのかと思わされる広大な敷地内に、その中で全てが完結するよう整備された街があり、突然異国に来たようでした。私たちは彼らの車に乗せてもらいながら、基地のシステム、使われ方、過ごし方などを一つ一つ教えてもらいました。軍事施設のほかにも、何でも買い揃えられるショッピングセンター、家具屋、銀行、保育所、レストラン、中にはクラブやシアターなどの娯楽施設もあり、アパートも驚くほど広く見えます。
しかし、私たちから見たら立派でよく見えるものも、彼らには彼らなりのストレスがあるようでした。そしてその様子は、言葉でというよりも空気で伝わってくるものがありました。はっきりと言ってしまえば、立派で充実して見える敷地内の街の中にも、その街ですれ違う人々にも、幸福感を見出せなかったのでした。でも、それがなぜかを分かるには、まだまだこの世界を知らなさ過ぎました。
□フィルム写真から垣間見る日本
見学の後、Davidさんとは別れましたが、ノリさんのお店にGeorgeさんが来てくれて、私たちにアメリカンなステーキなどを振る舞ってくれました。そもそもその前に、ステーキを焼くためにBBQコンロをセットしたりとお店のスタッフさんや常連さんが、準備してくれていました。私たちがお店に戻って来るや否やで「George!」と声をかけた常連さんの様子から、彼がこのまちでどんな関係性を築いてきたのかが感じられました。
Georgeさんがステーキなどのお肉を焼いてくれている間、彼が趣味で撮り続けているフィルム写真をたくさん持ってきてくれていたので、私たちは順番にアルバムを回しながらその写真たちを眺めました。神社、桜、路地、標識、人、などなど…。彼は私たちの拙い問いかけ(どんなカメラが好き?どうして写真が好き?など)の中で、何度も「I love film!」と言いました。先程基地の中で、休みの日に基地のタウンにいることはほとんどないと言っていましたが、それは、こうして彼の築いた人たちとの交流と、写真を撮る趣味があるからなのだと、アルバムを通じて分かりました。
言葉の壁があっても、彼のアルバムを見ていたら、なんだか泣きそうになりました。どの写真も、格好つけたものではなく、まちの日常を切り取っただけのようにも見えるのですが、どこかあたたかく、切なく、美しい写真ばかりでした。そして、人の写真は、みな幸せそうでした。
みんなで一通りそのアルバムを回し見た後に、岩手から来ていた、私たち山守仲間の師匠でもある九戸山族の夏井さんが、Georgeさんに質問し、こんなやり取りがありました。
「ジョージの写真には、どこか日本の中の日本を探しているように思えたんだが、ジョージにとって日本ってどう見える?」
(回答に少し迷った表情を見せてから)
「日本はアメリカより全てにおいて20〜30%ほど少し上をいっていると思う」
「質問が漠然とし過ぎたから聞き方を変えよう。ジョージが美しいと思う日本は何?」
(間髪入れず)
「人」「日本の人」
夏井さんは少し、あご髭を触りながら考えました。そして再び「じゃあ、ジョージは何に涙する?」と聞きました。彼はまたも間を空けずに「ここを去る時」と答えました。なんだか、そのまっすぐな回答に胸が熱くなりました。聞いていたみんなが、同じ気持ちだったと思います。「人間は、自分にとって美しいと感じるものと、涙するものは、背中合わせのように関連している、結びついているものだと思う。ジョージにとってそれが、日本人であり、日本の人と離れる時なんだな」と、夏井さんも深く頷きました。
□変わらない変わりゆくまち
3年程度で入れ替わってしまう米兵たちと地元をつなぐ、そして私たちのような来訪者をつなぐ、憩いの場を作り続けてきたノリさん。地元を活性化させる、地元の文化や歴史を大事にするためにできることと向き合いながらも、人の出入りが激しい地域では、常に変わりゆくこととも向き合わなければいけません。良い意味で変わらないものを守ろうとしつつも、自分たちにはどうすることもできずに変わりゆくものもあるから、足並みが揃わずに結果悪い意味で変わらないことがある。そういった葛藤を感じました。
でも、ノリさんは続けてこうも話してくれていました。
「米兵さんとも仲良くなれた頃にいなくなってしまうし、“今こうですよ”と声をあげても、その“今”はすぐに流れていくから、時々疲れてもしまうし辛いとも感じる。昔は特にそうだった。でも、これが三沢だし、長くやっていると、配属などによってはまた何年か経って三沢に戻って来てくれる人もいるのだということが分かった。その時の再会の喜びも知ったから、今はそれも良いなと思えている」
ノリさんのような人もいるからこそ、Georgeさんが日本人を美しいと思い、日本との別れが来たら涙すると感じるに繋がっているんだなあと、改めて感じました。そして、それは本当に「長くやっている」からこそ乗り越えていることと見出せることなのだろうなと、私たちにしてくださった一つ一つを思い返してみても、重みを感じました。
□長い歴史を持つ日本だから
一連のやりとりを経て、夏井さんが最後に「ジョージが美しいと思ってくれている日本人が、日本人らしさを今失いつつあるとしたら、どうしたらいい?」と聞きました。すると、Georgeさんは次のようなことを言ってくれました。
「日本はもしかしたら、日本人らしさを今見失いかけているのかもしれない。でも、日本には長い歴史がある、文化がある。アメリカの歴史に比べたらとても深い歴史がある。時代が変わっても、日本はこうして守ってきた。それがあるから、日本は大丈夫だ」
まるで「なんてことない、心配いらないよ」と言ってくれているような表情でした。彼らの目線から見える「日本」「日本人」に、大切なことがたくさん隠れているように思いました。
小さなこの日本からしたら、強く、あらゆる分野で先を行くアメリカ。しかし、彼は「日本の方が上じゃないか」と言いました。彼の心配りや発言、数々の写真からも、日本人よりも日本人とは何たるか、日本とは何たるかを見出しているのかもしれないですね。私たちはまだ、それが何なのか、言葉にできないでいます。ただ、それを探し求めて、山で繋がったのだなあと思ったのでした。
その夜、私たちはGeorgeさんと山守仲間でBARや飲み屋をハシゴしました。Georgeさんとは特に山の話をしているわけではないけれど、何か気持ちで通ずるものを感じました。みんな、彼のことが大好きになりました。
退役まであとわずかだという彼は、終えたら日本に残り暮らしたいと言っていました。私は、彼があのタウンから出たあとに、数々の写真を撮りながら、幸せに包まれた人生を歩めますようにと、心から思いました。
三沢基地の中を案内してもらって、三沢というまちのことをたくさん教えてもらって、なんだか「自分事と他人事の距離」が少し近づいたような、ひとつまた私たちの見つめるべき世界の枠が広がったような、そんな経験をさせていただいたように思いました。三沢の何が分かったとか、日本はどうだとかをまだ言える段階まで分かってないですが、三沢に暮らすアメリカ人たちを「米軍」「米兵」というカテゴリーでしか関われなかった私の中に、その日出会った一人一人の生活や想いが見えたことで、彼らが身近になりました。そして、彼らの目から見る日本が、少し見えました。
翌朝ノリさんに案内していただいた三沢のまち歩きでも、残したいローカルな魅力と、変わりゆく開発や文化とのせめぎ合いを感じました。同時に、そのせめぎ合いの中に美しいものを感じました。
三沢というまちに、日本を見たひとときでした。