馬門山族との時間
いつもなら、その日のうちか翌日に、記憶と感覚が鮮明なうちに浮かび上がることばたちを残したいのに、馬門の山で過ごした時に感じたあれこれは、時間と共に削ぎ落とされて残った余韻、残り香、そんなものにこそ大切なことが詰まっているような気がして、すぐに筆を取れない私がいました。何をするでもない時間に、何もかもが詰まっていた、そんな野営の中でのお話。
□リョウさんとの出会い、馬門山族との出会い
今回は、6/9-10で三沢、10-11で野辺地&馬門という旅を組んでいました。そもそも、前日の三沢(三沢の記事は下記から)にも来てくれた、野辺地で珈琲屋を営むリョウさんとの出会いが、今回の旅のきっかけでした。
リョウさんと出会ったのは、2022年3月に、私たちの師がいる九戸山族さん主催で開催された山守懇親会。その時はあまり多く語ったわけではなかったものの、彼の営む「自遊木民族珈琲」のネーミングの個性、そしてリョウさんの放つオーラがなんだか印象的で、飲み明かした翌朝に淹れてもらったコーヒーが美味しくて、帰る頃にはしっかりリョウさんという人に興味が湧いていたことを覚えています。それから1年、会うことは無かったものの、出会わせてくれた師を経由して、リョウさんと仲間たちの活躍を聞いていました。
2023年3月、弘前市嶽温泉で開催された山守懇親会で再会。それぞれ拠点や仕事、活躍の舞台はさまざまでも、ライフスタイルの中に山と向き合うことを取り戻し、自然と向き合っていこうという志を同じにする仲間たちの集まりです。宮城から足を運んだ私たちも私たちの活動を報告しましたが、リョウさんも、仲間たちと「馬門山族」として、野辺地のすぐ隣にある馬門の山で、活動を始めたことを報告しました。
友人、先輩、その親戚、そのまた後輩・・・のような繋がりでゆるやかに集まったチーム、馬門山族。リョウさんの想いが波及して、自然と吸い寄せられるように集まった仲間たち。「俺山あるよ」と言ってくれたメンバーのおかげで自分たちが入る山を見つけ、楽しむこと、自給型であること、そして、九戸山族から教わった死生観や山の理、感謝、そういったものを大切にした、あくまでも自然体を大切にした活動をしている皆さんです。
率直な感想は「羨ましい」の一言。なんて肩肘を張らない、なんて自然な、なんて楽しそうな取り組みだろう、と思いました。もちろん、私も楽しくないわけではありません。しかし、私はもっと、まちの課題や将来的な不安を解決する一歩として、今できることをと動き出したところがあります。リョウさんは、私たちのそんな取り組みを誉めてくれて「動き出した話を聞いた時は羨ましかった」と言ってくれました。でも、私はその日初めて会った馬門山族の皆さんの醸し出す雰囲気と、その在り方に、とても惹かれました。彼らももちろん自分たちの地域のことや東北のこと、将来のことを考えてはいるのですが、課題解決よりもまず、己の身体で感じること、汗を流すことの意味や意義を見つめ直しているようでした。
私もまだ見落としていることが、きっと、馬門の山にある、と思いました。だから、彼らの山に行きたいと思いました。
□三沢から、いざ馬門山族の山へ
三沢での心にグッとくる出会い、語らい、まち歩きを経て、お世話になったノリさんに導かれながら食材やお酒を買い、いざ馬門山族の皆さんの元へ。まず、買い出しの時点で「全部で何人だろう、どれくらい買おう」と話していると、ノリさんが「みんな自分たちで用意できるものを持ち寄る自己完結できる人たちだから、自分たちが食べたいものを用意すれば良いんだよ」と言ってくれました。もう、それが格好良かった。自立していて、信頼し合っているその関係性が、すごく格好良かったんですね。
そうして夕方16時半頃に到着した彼らの山は、道路沿いにあり、入り口の方は数台の車が停められるようになっていました。そこから彼らの作った広場まで数メートルなのですが、その数メートルを歩くうちに、なんだか空気が変わるような、結界を通ったような感じがしました。でも、嫌な感じは全然しなくて、あたたかく迎え入れられているような感覚でした。
着いた頃には、馬門山族のメンバーの皆さんが、テントを張ったり、バーカウンターみたいにセットしてくれていたり、焚き火で調理ができる準備をしてくれていたりしました。その広場も、空があきすぎない程度の広場になっていて、木々が私たちに傘を作ってくれているような、包み込まれたような広場で、すごくあたたかみがあるんです。
私たちは、リョウさんに案内されながら、皆さんの山をぐるりと歩いてまわりました。湿度が高く少し暗めの山だったのですが、最初のみんなの広場以外は、最小限の道を入れ、最小限の除伐をしながら奥へと進んでいます。皆さんのお手入れで少しずつ陽が入り、新たなミズナラの若木がたくさん生えて、きのこが生え始めたのを見て、山の生命力を感じました。そのきっかけ与えた馬門山族は、山に愛されて見えました。
一番印象的だったのは、馬門山族のメンバーの中でも「最初は誘われてついてきたんだけど段々楽しくなってきた」というようなことを一緒に来た仲間に向けて語ってくれていたが一人が、なんだか一番この山に可愛がられているように見えたこと。ずっと木々の傘に囲まれて、大事に守られて見えたんです。もちろん他のみんなも愛されて見えてましたが、そんなみんなが引き入れたメンバーを山も「おいでおいで」と一緒に大切にしているようでした。
□「野営」だからこそ大切にすること
山を一通り案内してもらった後は、みんなで火を囲んで交流会。私たちが買ってきた野菜やお肉を焼いたり、馬門山族の皆さんが各々の作ってきてくれたお惣菜やシチュー、その日釣ったという鮭やホタテをいただいたり。皆さんが私たちを皆さんのスタイルで楽しみながらもてなしてくださっている様子が、やっぱり馬門山族さんらしくて良いなあとしみじみ思いました。
BBQのような、キャンプのようなことなのですが、これは「野営」だから一味違う。キャンプ場のように、管理者がいて指示通りに過ごすのではなく、全て自分たち次第。山に感謝し、山から恵みをいただき、山に寝床を作らせていただき、何が起きても自分たちの責任。そして、あくまでも山を大事にすることが優先なので、切り拓き過ぎず、山と一体になるような空間づくりをしています。
今回一緒に過ごす中で、リョウさんが「キャンプ場でもなく山だから、鳥も獣も住んでいるし、俺たちはこうして過ごさせてはもらうけど、ごみはもちろん、食べ物とかも、捨てたり忘れていかないように気を付けている。獣が里に降りてくるのは、獣のせいじゃなくて、人間の食べ物の味を教えてしまう人間のせいかもしれないから」というような話をしてくれました。広場も道路から近い人里寄りです。人間たちが山で過ごさせてもらう時間はあっても、山の生命の営みを壊さないようにする。野営だからこそ生まれる配慮と責任感。本来キャンプも、そういうところから学んで楽しむべきなのかもしれないですね。
□火はごちそう
皆さんと過ごした時間の中で、時間で思い返せば16時半頃から翌朝5時頃まで、ずっと焚き火を囲んでも語り合っていました。馬門山族の皆さんは、誰がやるかと示し合わせることもなく、各々が自ら火をつなぐ役割を担い、それはそれは自然に火が灯り続いたのでした。その間、一人、また一人とどんどん各々のテントに眠りについていくので、焚き火も少しずつ小さくしていきながら。
またもリョウさんが、素敵な言葉をくれました。
「焚き火にも、フィナーレがあるべきなんだよね」
焚き火に使う薪や枝の一つ一つを大切に、無駄に燃やさないように。もうすぐ終わるという時に太い薪を足すと燃やし切れずに勿体無くしてしまうかもしれないから、そういう薪は避けて。終盤は細い枝を折りながら、少しずつ細く絞りながら火を囲みました。
最後は4人くらいになって、真っ暗だった空が、少しずつ明け方の空色に変わっていって、誰からでもなくなんとなく明け方の山散歩(獣たちが驚かないように、あくまでも私たちがいた広場の周りだけ)をして。「またあとで」と言いながら眠りにつきました。
自分の寝床についてふと時間を見るためにiPhoneを出したとき、充電がたくさん残っているのを見たと同時に、ほとんどiPhoneに触れていなかったことに気付かされました。この約12時間、山を歩いて、飲み食いして、火を囲んでいただけ、と言えばだけなのですが、みんなの語らいの中心には常に焚き火があって、その火を見つめ、時々周りの木々を見つめ、パチパチと燃える音とさやさやと揺れる木々の音とみんなの話し声、それだけで飽きることもなく充実した時間を過ごせていたことに、これまでにない幸福感を覚えました。
いつか、師である九戸山族の夏井さんが話してくれたことがありました。寒い東北では、火は“ごちそう”なんだと。この日、みんなが持ち寄った食べ物もどれもごちそうでしたが、一番のごちそうは「火」だったように思いました。
ひと眠りし始めた頃、まるで雨のような音がして、一瞬起きました。でも、雨ではなく、木々から朝露が落ちてくる音でした。山の夜明けの音に包まれながら眠りにつきました。
5時間ほど経った10時頃、再び焚いた火の元にみんなが起きて集まってきました。リョウさんのコーヒーと、リョウさんの奥様が焼いてくれたパンをいただきながら、それはそれは贅沢な朝を迎えたのでした。
□また来る理由を残して
朝食後に、数分で着くすぐ隣町の野辺地へ。そこに、リョウさんの暮らすお宅と「自由木民族珈琲」がありました。お店の裏の敷地には、作り過ぎず自分たちが食べる分だけを大切に育てている畑が広がっていました。リョウさんは、山でだけでなく、日常にもゆるやかに山での教えを取り入れて生活されていました。手作りがゆえに生まれる歪さに、なんだか愛くるしいものを感じました。美しいものは、いつもそういった「歪さを伴うもの」にこそ見出されるように思います。
その後、また山に戻って、焚き火にあたりながらも片付けたりしているうちに、別れの時間が近付いていきました。「帰りたくないんでしょう」とノリさんが私たちに言いました。正直帰りたくない気持ちでいっぱいでしたが、また翌日から、仕事含め各々の生活が待っているので帰らなければなりませんでした。でも、この名残惜しさがあるから、また必ずここに来る、来たいという気持ちも強くありました。
それから、今回とても楽しみにしてくださっていた馬門山族の族長のカツヤさんが、まさかの急な虫垂炎で直前になって不在という事態でした。幸い回復に向かわれたようで一安心でしたが、カツヤさんに会えなかったことがとっても心残りでした。なので、またここに戻ってくる理由があります。また戻ってきたいと思います。
ただ、不在だったものの、焚き火を囲む語らいの中で「カツヤさんはすげぇよ」「あいつは凄い成長してるよ」などと仲間たちが語っていたのを聴きました。いない時にこんな風に語られるリーダーこそ、本当に慕われるリーダーですよね。最後まで格好良くて、心地良くて、どんどん好きになった馬門山族の皆さんなのでした。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?