消えた蛍火
新月の静寂。街灯のない道。
山から流れる小川の冷水が暗闇を色づける。
懐中電灯を消す小宮天音。隣に立つ吉川海斗はジッと夜に目を凝らした。
「おお、いた!」
はしゃぐ海斗。天音の細い手をギュッと握ると、闇の向こうに指をさす。天音は一瞬ドギマギするも、彼の声を追うように小川の暗闇に目を細めた。一点の光。ふっと視界の隅に現れて消えた。
「本当だ、こんな所にホタルっていたんだね?」
「うん、すげぇ、ケイの言った通りだな」
二人は暗闇の中で顔を見合わせた。クラスメイトの大栗田ケイが「ホタルを見た」と騒いでいたのは今朝の事だ。テレビの中でしかホタルを見たことが無かった海斗は半信半疑で、家の近い幼馴染の天音と確かめに来たのだった。
浮かんでは消える光。淡い黄色の点は明かりとは呼べないほどに儚い。
ホタルの光で勉強は無理じゃない?
天音はそんな事を思いながら、僅かに視界に映る海斗の横顔を眺めた。彼女の右手を握る彼の温かさ。蛍火よりもそちらに意識を取られてしまう天音。
「おい小宮、後ろ後ろ」
海斗の声。振り向いた天音は悲鳴を上げた。目の前で光るホタルの足が見えたのだ。慌てて腕を振ると小さな何かが袖に当たる。同時に消える眼前の光。天音の荒い息遣いだけが後に残った。
「あはは、ビビリ過ぎだろ」
海斗は腹を抱えて笑った。「もうっ」と憤慨する天音。ニットの袖にホタルが付いていないことを確かめると、消えたホタルを探した。だが蛍火は遠くに見えるばかりで、先ほど目の前を飛んでいたホタルは見当たらない。
「どうしよう、ホタル殺しちゃったかも……」
天音は懐中電灯の光で地面を照らす。だが、雑草の生い茂る道でホタルの光を見つけ出すことは出来なかった。
天音は痛む腰を叩いた。
浅い水の流れは緩やかだ。コンクリートに囲まれた小川の底。溜まる泥を掻き分けた天音は空き缶を拾い上げた。ゴム手袋越しに伝わるヌメリ。天音は川に浮かばせてある青い箱を引き寄せると空き缶を捨てた。岸からは見えない小川の底にはゴミが多い。一時間もしないうちに、川に浮かぶ青い箱は全て満杯に近い状態となった。
「そろそろ休憩にしましょうか!」
町内会長のシバタの声。天音はふうっと息を吐くと岸に上がった。
「なあ、昔この川でホタル見たよな?」
天音の横に腰掛ける海斗。汗まみれの夫の顔を見上げた天音は小さく頷く。
「そうだね」
「もう、流石にいないか?」
「うーん、いないと思うよ」
「残念だな、綺麗だったのに」
「うん、残念だね」
虫嫌いの天音。ただ、どういうわけか彼女はホタルが好きだった。川掃除のボランティアを引き受けたのも「ホタルの里を取り戻そう!」という謳い文句に惹かれたからだ。
「上流なら、いるのかもな」
海斗は水筒のお茶を飲みながら川の向こうの山を見上げた。頷く天音。上流で舞うホタルを想像する。
「ここは汚いからね」
「綺麗になれば、また戻ってくるさ」
「……どうだろうね?」
いつか見た眼前に光る蛍火。灯るよりも消えるイメージの強いホタルの光。
もう一度、見たいな。
天音は川岸に生い茂る雑草を眺めながら立ち上がった。