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最終列車


 田中康平は夜の駅で俯いた。
 線路と摩擦する車輪の音。閑散としたホームは、月の隠れた空の下で最終列車の到着を告げる。
 外気と遮断された車内の空気は重い。康平は窓際の座席に腰を下ろした。薄汚れたガラスの向こうに広がる暗闇。目を瞑った康平は、振動する窓に頬を当てる。仄かな冷気が火照る首筋に心地良い。だが、安穏とした眠りは訪れなかった。
 康平は不眠症に苦しんでいた。昔から寝付きの良い方ではなかったが、最近はやっと眠りについてもすぐに目が覚めてしまう。病院に行こうかと悩んでいたが、仕事が忙しく、なかなか足を運べないでいた。
 窓に映しだされる車内。人けの無いガラスの奥の広がりは暗い。
 窓の向こうに揺れる列車内を見つめていた康平はゾッとした。誰もいないのだ。康平は慌てて下を向くと手の平を擦った。太ももを押さえて、肩と胸を叩く。確かにある自分の存在にホッと息をつくと、横目で窓を流し見る。だが、やはり暗いガラスの向こう側には誰もいなかった。
 幻覚か? 睡眠不足で頭がやられてしまったのか?
 康平は軽い頭痛を覚えて窓に額を当てた。滑らかな表面の冷たさ、そこに自分の熱を感じる。
 ガラスに移る体温。ガラスに映らない自分。自分の存在が消えていくような恐怖を覚えた。
 康平は家族を思った。妻と娘はほとんど口を聞いてくれない。部活と勉強に精を出す息子は毎日が忙しいようで、顔を合わせる機会が少なくなった。次に職場を思う。管理職の立場にある康平はそれでも雑務に追われ、定時で上がる部下たちを尻目に毎夜遅くまで仕事続けていた。職場では仕事以外の会話がない。
 周囲が、家族が、自分の存在を忘れてしまったのではないか?
 康平は焦って携帯を取り出した。家に電話をかけると、すぐに息子の達也が電話に出る。
「達也か?」
「うん、こんな時間にどうしたんだよ?」
「……いや、遅くなったから連絡しておこうと思って」
「え、いつもの事じゃん?」
「あ、ああ、そうだな、そうだった」
「大丈夫? お母さんに代わろうか?」
「いや、大丈夫だ、ありがとう。もうすぐ帰るよ」
 康平はほっと息を吐いて電話を切った。息子は、家族は、父をしっかりと覚えているようだった。握りしめる携帯が暖かい。
 明日から早く帰ろう。康平は座席にもたれ掛かった。終わらない雑務は職場の皆んなと話し合って何とかしよう。
 ふと、窓台に置かれた腕が窓に反射しているのが目に入った。横を流し見ると、疲れて頬の弛んだ自分の横顔が目に入る。
 何だ、私はここにいるじゃないか。
 康平は深く息を吐くと、浅い眠りに落ちていった。

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