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私には謝りたい人がいる。

5年前、その親子を見かけたのは、とある飲食店だった。
当時私は営業で外回りをしていて、そのときは店で昼食をとりながら、スマートフォンでメールをチェックしていた。

近くの席に、1歳半くらいだろうか、小さな男の子が、足をぶらぶらさせながらお母さんと並んで座っていた。

その男の子は始終ぐずっている様子で、「やー!」とか「あたー!」などと叫んでは、椅子から降りようとしたり、テーブルを叩いたりと騒がしかった。

あまり気にしないようにしていたのだが、突然「あ゛ー!!」と一際大きな声が聞こえてきたので、顔を上げると、その男の子が持っていたパン(のようなものだったと思う)を、床に投げ捨てたのだ。

「あーあ...」お母さんは独り言のようにポツリとつぶやくと、落ちたものを拾おうともせず男の子のことをじっと見つめていた。

その様子を見て、私は「なんで叱らないんだろう」と少し不快に思った。
しつけをしていないんだな、と。

パンはそのまま床に転がっていて、男の子はその後もテーブルの上をバンバンと叩いたり、お母さんの服を引っ張ったりと暴れていた。

あんなにお店で騒いでいるのをそのままにしているのって、どういうつもりなんだろうなあと、その後もちらちらと親子の方を盗み見たが、横に座るお母さんの表情からはなにも読み取ることができなかった。


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私に子どもが産まれたのは、一昨年のことだった。
特段子ども好きというわけではなかった私は、きっと子どもができてもさほど子煩悩になることはないだろうと思っていたのだが、いざ産んでみたら、なんてことはない、どの親も通る”親バカ街道"をひた走っていた。

生後数ヶ月の頃なんて、こちらを向いてにこっと笑っただけで「ねえ見た?いまの。この笑顔、すごい破壊力じゃない?」なんて平気で言っていたし、スマートフォンはムスメの写真と動画であっという間に保存容量がいっぱいになった。

そんなムスメももうすぐ1歳半を迎えるのだが、ここにきて、俗に言うイヤイヤ期というやつに突入したようだ。

思い通りにならないことがあると、そこが公園の砂地だろうが駐車場のコンクリートだろうが関係なく、寝転がりジタバタと手足を動かして抵抗する。

まだ遊びたいのに寝室へ連れて行こうとすると怒りに任せておもちゃを投げつけるし、つみきが入っている箱をわざとひっくり返したりもする。

中でもタチが悪いのが、食事時だ。

椅子の上に立ち上がる、テーブルに乗ろうとする、食べたくないものを掴んで投げ落とす。そして、それを制止しようとするとヒートアップして仰け反り、手がつけられなくなる。

丹精込めてつくったものを、毎度毎度、目の前で床に投げ捨てられる...その光景は、日を追うごとに少しずつ私の神経をすり減らした。赤ちゃん相手なのだからと頭では分かっていても、やはりこたえるのだ。

あんなに可愛くて仕方がなかったムスメの胸ぐらを掴みそうになったことも一度や二度ではない。(実際に掴んだことはありません、念のため。)

先日、昼食に作ったおにぎりやハンバーグ、野菜炒めを、壁に投げつけられ、お皿までひっくり返して床に落としたあげく、「もう食べないならいいよ」と椅子からおろした途端、戸棚を指差し菓子パンを求められた時には、さすがにプチンときてしまった。

「もう、勝手にしなよ。」
そうつぶやくと、いつもは1日2つまでだよと言い聞かせている菓子パンを袋ごと渡し、歩きながら食べるのも止めず、自分は娘に背を向けてダイニングチェアに1人腰を下ろした。

壁に野菜のシミができているのも、床に転がるおにぎりやハンバーグも、ムスメがそれを踏んづけた足で歩いているのも、ベタベタに汚れた手も口も、もうどうでも良い。

リビング中に撒き散らされたパンくずをぼんやりと眺めながら思い出したのは、あの親子だった。

パンを投げ落とす男の子に一言「あーあ...」とつぶやいたお母さん。
彼女の背景にも、こんな日常があったのだろうか。

あの瞬間にいたるまでに、あのお母さんの中に少しずつ積もっていたかもしれないものを想像することは、当時の私にはできなかった。

もちろん、食べ物を床に落とすのは良くない。
そんなことは分かっている。

でも子育てをしていると「ああ、もう好きにして」っていう瞬間がある。
私が見たのも、彼女の「その瞬間」だったのかもしれない、と思うのだ。

だから私はあのお母さんに今、謝りたい。

それだけじゃない。

地面に寝転がる子どもに途方に暮れている親を見て「力づくで抱っこして連れて行けばいいのに」と思ったことも、ジュースをこぼした子どもを怒鳴りつける親を見て「怒鳴るなんて」と思ったことも、いまは全部、謝りたいのだ。

今月からムスメが保育園に通い始めた。
行きたくないムスメは、朝、自転車に乗せようとすると仰け反って抵抗する。これが、1歳だからと馬鹿にできないくらい力が強く、大の大人でも、乗せるのに一苦労なのだ。押さえつけようとするとさらに大暴れして予想もつかない動きをするので危ないし、ヒートアップしてその後がさらに大変になる。

「こぼすからお母さんが飲ませてあげる」と言っても聞かず、無理やり自分で飲もうとして洋服が牛乳だらけになれば、どうしたって「もう!」と怒鳴りたくなってしまう。

先日、ムスメがベビーカーに乗らず、抱っこも拒否して地面に寝転がっていたとき、横を見ると、同じくらいの歳の男の子が、ベビーカーに乗りたくないと叫んで走り回っていた。

ふとその子のお母さんがこちらを向いたので、互いに軽く会釈をする。

(大変ですよね、頑張りましょうね。)

そう視線を交わした。

子どもが産まれてからというもの、外出先で同じくらいの子どもを連れているお母さんを見るとみんなが同志に見えるから不思議だ。

そしてそれは、相手も同じなのか、飲食店や電車の中で、子どもが暴れて物を投げてしまったときに拾ってくれるのは、だいたい同じような子連れの女性だ。

きっと今見ているものの向こう側にある育児の日々を想像できるからなのだと思う。みんな「あの瞬間」の経験者なのだろう。私も今では、そういう場を目にしたらできる限りサポートするようにしている。

子育てに限らず、今自分の目に見えるその瞬間だけではなく、その人の向こう側に広がることを想像できる人になりたいと思う。

かつてのわたしがそうであったように、経験していないことを想像するのは確かに難しい。でも「想像してみよう」と思えるようになったこと、今この瞬間に目にしたものだけが全てじゃないのかもしれないと気づかせてくれたのは、子育てだった。

5年前に出会ったあの男の子も、来年には小学生くらいだろうか。もう食べ物を床に落としたりはきっとしないだろうけれど、きっと今は今で他の大変なことがあるのだろう。

もう二度と会うことはないけれど、あのお母さんに今、エールを送らせて欲しい。

頑張れ、あのお母さん。

そして頑張れ私。

明日もきっと、自転車に乗るのを断固拒否するムスメと格闘するところから1日が始まる。


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