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市長さんのTPS(ターニングポイントストーリーズ)

 みんなの人生に転機、ターニングポイントはある。現在市長をされている方の転機はどのようなものだったのか。ご紹介いたします。

 30歳で政治家を目指すことに決めた。そこから人生が変わっていった。
 私の実家は繊維工場をしていた。綿織物の工場だ。しかし自分は継ぐ気がなかった。むしろ、商社に勤めていたこともあって、貿易関係で起業したいと思っていた。また、妻の父が市会議員や助役をしていたこともあり、漠然と政治家へのあこがれももっていた。
 そんな時、友人に自己啓発セミナーに誘われた。当時、話題になっていたセミナーだ。友人は「受講料払うから受けてみてほしい」とまで言ってきた。そこまで言われると、参加してみないといけない。おそらく成功するためのビジネススキルを教えてくれるところだろうと、思っていた。
 しかしそこで教えられたことは、『自分の目標を見つけること』だった。当時は、自分で貿易会社を起業するか、政治家になるか、漠然とした目標だった。しかし、これをきっかけに目標を一つに絞った。政治家への道だ。
 

 そのころ、商社に勤めていた。なので立候補をするためには、会社を辞めるしかなかった。今は会社に在籍中も立候補できる制度もあるが、昔はなかった。
 政治家への道を決意したはいいが、妻も子供もいた。会社を辞めて立候補し、もしも落選したら生活が成り立たなくなる。なので、まずは自分たちで身を立てる必要があった。妻は薬剤師の資格を持っていたので、まず会社を辞め、薬局を営むこととした。31歳の時だ。そのころからこつこつと準備を始めた。

いよいよ政治家へ
 37歳の時に初めて市会議員に立候補した。当時、37歳での立候補は若く、「まだ早いのではないか」と言われ、周りからは反対された。今ではもっと若い人も市会議員になっている場合もある。しかし、30年前はそんな時代ではなかったのだ。当時の自分は世の中を良くする仕事がしたいという思いでいっぱいだった。豊かな世界に変えていきたい。そんな私を応援してくれた仲間がいた。昔からの同級生だ。仲間は、私と一緒に何千件とお宅に訪問してくれた。そんな仲間がいることを今でも本当にうれしく思う。
 その結果、当選した! 26人の当選者の中の8番目の得票数だった。26人の内22人まで現職者であり、入れ替わりは4人のみ。その中でも最年少・新人での当選を果たした。
 どうしてこのようなことが、実現したのか。それは仲間の力が大きかったように思う。これだけ熱心に応援してくれる仲間の居る人だから、若くても任せられる、そう思っていただいたように思う。そして、もちろん目標を明確にするということも大切だ。
 現在はその後、和泉市市長をさせていただいている。市長の仕事とは何か。それは、税金をもとに自分たちの考えをプラスして、市民サービスに還元していくことだ。そしてその結果、市民が満足するものであったかどうか、審判を4年に一度受けるのだ。

和泉市立病院につて
 例えば和泉市立病院。以前は赤字続きで、経営の赤字が続いていた。年間10億の税金を投入しないと維持できない状況となっていた。救急医療も実施できる状態になく、さらに病院の建物の老朽化も進み、建て替えもしないといけない。したがって、民営化を検討した。民営化の中でも手を上げていただいたのが、徳洲会。徳洲会病院は救急医療を専門としている病院だ。
 民営化に対して、市民からの声は、「市民が通院できなくなる。」「病院がなくなってしまうのでは。」など、不安感からくる多くの反対意見もあった。しかし決断を下さなくてはならない。そしてあらゆる情報を考慮して下した決断は、指定管理者制度の導入だった。指定管理者制度とは、公立病院の位置付けのまま、民間ノウハウを生かすために運営を民間に委ねる制度だ。
 指定管理者制度を決断してその後、8年が経過した。現在どうなっているか。医師は全員退職せずに残り、看護師は三分の1が公務員を続けるために別の職種に転職したが、ほとんどが残ってくれた。病床の稼働率も70%から100%へ増加した。病院の建て替えも行い、現在では診療科数も大幅に増加している。つまり、市民サービスは大幅にアップしたのだ。もちろん医療従事者の負担は増えていることが予想されるが、そのまま従事してくれている。本当にありがたい。
 みんな変化を受け入れることに不安を感じるものだ。しかし、時には決断しなければならない時もある。だからこそプロフェッショナルとして、あらゆる情報を入手し、そのうえで決断することが必要になってくる。政治の世界はそんな仕事だ。

あかいちゃんちゃんこ

 明確に目標を持ち、そして仲間からも信頼されて、進むことができた道だと思う。今後も市民生活が豊かになるように、全力を注ぐ。

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