「恵まれてる=幸せ」 バイアス
こんにちは。あすぺるがーるです。
治安が良く、衛生条件も整っており、食に困ることもそうなく、科学技術も発達していて、教育を受ける権利が憲法で保証されている日本に生まれ育った私たちは、
「恵まれている」
と、しばし言われます。
それは
「あなたたちは恵まれているから、幸せなんだ」
と言おうとしているようにも解釈できます。
しかし、本当にそうでしょうか?
今回は、「恵まれている」 ことと 「幸せである」 ことの関係性についてお話したいと思います。
私は確かに、恵まれて 「は」 いる
新しい大学での最初の授業で紹介されていた 「もしも世界が100人の村だったら」 には、こんな一節があります。
また、こんなふうにも考えてみてください村に住む人びとの100人のうち20人は栄養がじゅうぶんではなく1人は死にそうなほどですでも15人は太り過ぎです
75人は食べ物の蓄えがあり雨露をしのぐところがありますでも、あとの25人はそうではありません17人は、きれいで安全な水を飲めません
銀行に預金があり財布にお金があり家のどこかに小銭が転がっている人はいちばん豊かな8人のうちの1人です
村人のうち1人が大学の教育を受け2人がコンピューターをもっていますけれど、14人は文字が読めません
もしもあなたが空爆や襲撃や地雷による殺戮や武装集団のレイプや拉致におびえていなければそうではない20人より恵まれています
確かに、その空間にいたのはおそらく
・「栄養がじゅうぶん」 な80人
・食と住に困らない75人
・「きれいで安全な水」 を飲める83人
・「いちばん豊かな」 8人のうち1人
・文字が読める86人
・殺戮や拉致に怯えていない80人
の側にいる人であったことでしょう。
私もそのような人間のうちの一人であることは、確たる事実です。
それは本当に 「幸せ」 か?
しかしこの後の一節で、私は悲痛な涙を流しました。
もしもこのメールを読めたなら、この瞬間、あなたの幸せは2倍にも3倍にもなりますなぜならあなたにはあなたのことを思ってこれを送った誰かがいるだけでなく文字も読めるからです
けれど何よりあなたは生きているからです
確かに私は、文字が読める。
確かに私は、生きている。
けど──
今の私、これっぽっちも幸せじゃない。
この詩で触れられていたことを差し引いても、私が、同世代の発達障害当事者に比べてはるかに充実した支援と理解を得てきたことそのものを否定するつもりは、全くありません。
しかし、
母に進路を弄ばれ勉学すらままならず、
不登校になってサークルさえ足が遠ざかり、
心身ともに削られながらネットの海を彷徨い、
処方箋に抗うつ薬と安定剤と睡眠薬が加わり、
当時の私が、母から離れる唯一の手段であった
「寮付きの大学に再入学」 を選び、合格するも、
入寮の話は合格後に母の手で潰され、
それでもなお母から離れようともがいた挙句、
彷徨時の居場所の人まで傷つけてしまった。
ネット上にさえ、居られなくなった。
そんな状況で、「幸せだ」 なんて言えますか?
どれだけお金があっても、
どれだけ物資があっても、
どれだけ時間があっても、
どれだけ理解があっても、
癒されることのない不幸せが、あるのです。
不幸せは、決して他人事ではない
不幸せは、貧困国やスラム街、ネットの海の中、自分と一生かかわりのない人々や場所にしかないものではありません。
身近な 「恵まれている」 人が、不幸せを抱えている可能性は十分にあるのです。
今幸せで 「恵まれてる」 と感じているあなたが、いつか不幸せの底に突き落とされる可能性もゼロではありません。
そして、その不幸せがどんなものかは、なってみるまで誰にも分からないのです。
日本という国が、ある程度 「恵まれてる」 ことは事実だし、不幸せばかりに目を向けていたら心が壊れてしまうでしょう。
しかし、「恵まれてる」 ことばかり見ていると見失われてしまうことが、数多くあるのです。
おわりに
幸い私は、新しい大学の先生方や同期のみんなに手を差し伸べられ、不幸せの底から抜け出すことができました。
しかし、私のように上手く不幸せから抜け出すことのできた人は、おそらく、ごく少数です。
私を救ってくれたのは、理解、善意、思いやり、赦し、そして願いでした。
あなたを取り巻く状況に、疑問が呈されたら。
それは 「恵まれてる」 状況の揺らぎ、そしてあなた自身の 「恵まれてる」 を再認識することを求める社会からの要求かもしれません。
そして、不幸せに対してほんの少しでも、理解、善意、思いやり、赦し、願いを向けることで人が救われ、あなたの人生がより豊かにできる可能性があるのです。
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