happyをカウントすることに関してあれやこれ
夕方5時頃。今日は丁寧にhappyをひろっていこう!と思っていたことを思い出す。まだまだ挽回できるはず。クリスマスっていうのは、あのワクワクした感じっていうのは、この歳(47)にもなると、再現できなくなるのかな。
わたしに足りないのは、メサイアかもしれない。イエスの誕生を待ち望む気持ちをまったくもって忘れている。どうしたことだろう。讃美歌を聞く回数が少な過ぎたのかもしれない。よくわからない。イエスがもうすでにいつも私の心に居て、もうそんな誕生日(クリスマス)とか死んだ日(イースター)とか気にならないのかも。
それはさておき、今朝は子どもがまだ暗い時分に起きて、トイレへ。そのまま布団に戻ってきて眠った。なぜだろう?プレゼントが気にならないのか?と思っていたら、昼くらいに「サンタさんを見てしまったら、もう二度とサンタさんが来てくれないっていう噂をきいたので、サンタさんを見ないように気をつけた」と言っていた。なるほど。そういう事だったのか。小学校では面白い噂が流れるものだな。彼がまだ心底サンタを信じているのが感じ取れる。私もそうだったが、周りが「あれは親だよ」と言っても、気にしなかった。私の家には本当のサンタが来るのだ!と確信していた。でも家に本当のサンタがくる家と来ない家があることは謎すぎた。がしかし私はクリスチャン。そこが違いなのかと。今から思うと「サンタ」ってどうなん?と考えなくもない。いい子にしてないと来てくれないとかサイテーだ。しかしそうやって子どもをコントロールする誘惑に何度も負けた。。。
今日のhappyはなんだろう。わたしはずーっとhappyだった。なので取り立ててどう。というのを拾うのだけど、焦点を当てると、どこもじんわり幸せを感じさせてくれる。しかし心が浮き立っている時にうまく捉えると、解像度が信じられないくらい上がる。後から思い出すhappyとはレベルが違う。
そのためには、わたしは「今」にいる必要がある。「今」を捉えられる時ほど幸せを感じられる。たとえば、今日うまれてはじめて「キッシュ」(昼)と「広島風お好み焼き」(夜)を作った。どっちとも美味しかった。こうやって書いてみるとありきたりの喜びになる。でもその瞬間は全く違う熱量で嬉しさを感じている。達成感さえある。
happyはカウントしはじめると嘘くさくなる。その時に捉えたものを忘れないように書き留めたい。数は関係ないのだな。ただのきっかけ作りだ。