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渋谷金王八幡宮例大祭マイムパフォーマンスWSレポート【作劇について】

こちらのレポートは2024年9月14日に渋谷の金王八幡宮例大祭で行われた
マイムパフォーマンスに参加した感想レポートです。
身体表現に関するまとめはXの方に上げてますので
今回は作劇についての感想をまとめていきます。


【作劇について】

神楽殿で最初にパフォーマンスした「ショーウィンドウ」という作品のベースは主催のまぁささんの過去作品となっており、
大枠の流れ(ショーウィンドウの中のマネキンが動きだし、店員の男が中に誘われ閉じ込められる)はそのままに
今回の参加者のレベルに合わせて動きを作り替えている。

全くの0から創作したのはこのショーウィンドウの後半にあたる部分で、
なぜ、マネキンたち(元は人間だった)はこのショーウィンドウという箱の中に閉じ込められることになったのかという部分についてだった。


基本的な作劇の方法としては下記の手順で行った。

①具体
 参加者の具体的な記憶や体験をかきあつめる

②抽象化
 そのエピソードで体験した記憶や感覚、
 その体験から作られた価値観等を抽出する

③具体化
 抽出されたエッセンスを元に具体的に舞台作品を作り上げていく

このWSをするにあたり、まぁささんから
「自分の感情であることに奉納舞台の意味がある。600年という歴史あるところで自分の感情をアウトプットして、お客様の拍手を受ける(受け入れてもらう)体験は、とても救われる」というのを聞いていて
すごく楽しみに取り組んだ。


【思い出せない…】

今回の作品テーマは「記憶」というのが最初から提示されていた。
事前のWEB顔合わせの時に「記憶と聞いて思い浮かべるもの何でも話して」という宿題が出てからの初回の稽古。
私は「記憶とはどういうものか」というのを掘り下げて考えて行ってしまったが
どうやらそういうことではなく、自分の実体験の記憶について話すというものだった。
そりゃそうだ。自分の感情でやることに意味があるんだから。
早々に躓く(笑)

そして、これが個人的にかなり苦戦した。
子供の頃の記憶が……ない(笑)
いや、ないわけではないと思うけど思うように出てこない。
断片的に光景とかが静止画っぽく思い出されるんだけど、エピソードとして出てくる記憶がない。体感もない。
し、なんだか自分事というより古い写真を眺めるように他人事のように感じられて上手く感情が掴めない。

記憶力って個人差あると思うけどこんなものなのか…?
と、若干不安になりつつ(笑)
最所の数回の稽古は個人的なエピソードを短いマイム作品として演じて発表する時間があって、毎回「ないー!ないー!どーしよー!」と言いながら物凄く苦労しながら記憶を掘り出していた。
見栄っ張りな性格なので
ただ単に人様に見せるような面白い感じの記憶ではないと
無意識にフィルターを掛けて弾いていた可能性もあるなーと自己分析。
とにかく「自分の過去」を思い出し「それがどのような価値観を作るきっかけになったのか」について向き合うことになった。

トラウマと向き合う

ただ実は唯一、最初から「記憶」と聞いてパッと思い起こされたことがあった。
子供の頃のいわばトラウマ的な記憶だった。
他の事を思い出そうとしても、どうしようもない磁力でそこにぐいぐい引っ張られるような感じがする。
無視しようとしても、なんだか物凄い存在感で私の中にデーンと居座ってるそいつに行きついてしまう。
他の記憶は写ルンですの写真クオリティなのに、その記憶だけは4K映像で音も身体の感覚も鮮明に思い出せるから存在感がデカすぎる。
これは向き合わねばならんのかなぁという思いがした。

初回の稽古でまぁささんから
「辛いものをやるのは苦しくなってしまうけど奉納という意味も込めて”成仏”させたいならそれもあり」という話もあったことと、
他に喋れる記憶のエピソードも出て来ず、観念して洗いざらいお話した。
当たり前ながら決して楽しいエピソードではないので申し訳なかったけど
「記憶に残る体験が自分の中でどのような価値観を作ったのか」という問いかけに対して、
私はこれ以上に今の自分の価値観を作り上げた記憶が分からなかった。
ただ、作品として昇華(成仏)できれば何か変わるかもしれないという期待はあった。

結果として、この記憶が今回の舞台作品として昇華できたかといえば答えはNOである。
でも自分と向き合う機会にはなった。
また、実際の作品作りとはちょっと違った形で面白い体験をしたので
それはそれでまた別のレポートにした。



【創作の難しさ。塑像と陶芸。】

そんなこんながありつつ実際に動いてみながら作品を作っていった訳なのだが、
作る過程はまさにスクラップ&ビルドだった。

最終的な形になる前に様々な案も出たし実際に動きも作ったけど、
次の週では前提となるショーウィンドウやマネキンへの意味付けが少しずつ変わっていったり深まったり、
あるいは話が深まると新しく入れ込みたい要素や概念が増えて、
また0から作り直すというのを何度も繰り返した。

今回の作劇は自分一人の頭の中を形にするのではなく、
参加者全員の記憶を抽象化して一つの作品を作ろうという試み。
一口に記憶といっても、参加者全員がこれまでの人生で培ってきた価値観が違うし、属しているコミュニティも其々なのでそこでも若干の価値観のギャップを感じる。
「ショーウィンドウが一体何を象徴するものなのか」という定義づけをしてみた時に、それが自分にとって心地よいものなのか離れたい場所なのかの感じ方もそれぞれ違う。
(実は、その違いが最後の三者三様の去り方になっていったりした)

互いの価値観を否定もせず肯定もせずただ在るものとして認めあいながら表現することと、
ストーリー性を持つ観客に見せる為の作品(概ねストーリーには葛藤や変化成長がないと面白くない)として完成させることを
両立することはすごく難しい作業に感じた。

これまで「テーマとなる軸や方向性が明確に提示され、そのブレない軸に沿って肉付けしていったり広げていったりする」という
塑像を作るような感じで舞台を作り上げる方法がやりやすいと感じていた自分にとって
「何を表現したいのか」「どう見せたいのか」「どう見えて欲しくはないのか(勿論お客さんの受け取り方は自由だけど)」という様々な要素が絡み合い
”こっちが変われば、あっちが変わる”
”見せ方が変わったなら前提を変える”というような流動的な創作は、
正直な言葉で表すなら非常にやりづらさを感じた。

けれども、違うと思ったら容赦なく潰したり大幅に歪めてみたり、
かと思えば繊細な修正を加えていったり…
そうした創作過程はとても自由なものだなとも感じた。
私が慣れ親しんだ方法が塑像であるならば、
「何か器的なものを作る!」というアウトラインだけがあって、
途中で花瓶になったり御猪口になったりしながら完成を目指す様子は
陶芸みたいな創作過程だなぁなんて思った。
塑像作家からしたら、「こんなやり方アリか!」という新しい体験になった。

短い期間の中で「見られる舞台作品として仕上げなければ!」という
私のクソ真面目ガチ気質の精神が発動してしまって気持ちに余裕がなくなり、その本来の面白さを存分に味わいきれなかったのが心残りだが、
より自由に取り組める余裕を持てば塑像型の創作よりもアイデアが飛躍し思いもよらない化学反応があるような創作過程なんだろうなと感じた。


【最後に…】

そうして出来上がったのが今回のショップ店員3人娘である。
創作に詰まった時にまぁささんから「女性特有の人間関係をコミカルに描きたい」というアウトラインが投げられて
それに適合するエピソードを参加者それぞれが捻出し、
雪絵さんの「お局さんにいびられた」という経験が下地となってあの作品が作られた。
私も似たような経験があったので
一挙一投足監視されてるような緊張感や、
自信の無ささから見られると「ヤベェなんかやらかしたかも!?」とビクビクしてしまう所、
マイルールを押し付けられて「これなんか意味あるんかな…」と思って嘆息してしまうような描写は
コミカルに誇張はしているけど紛れもなく私の中から出てきたキャラクターだったなと思う。

最後の去り際。
私が演じるポンコツ新人ちゃん(笑)はショーウィンドウから出たくても出られず藻掻いている内に気力体力を失ってしまい力つきて倒れてしまう。
しかし、その絶望と脱力と無抵抗こそが
彼女にとってのショーウィンドウを出る鍵になっていた。

このシーンを作っている時、当初まぁささんからは「新しい所を目指して力強く歩き出す。ショーウィンドウの中に居た時の私とは違うわ!みたいな感じで」と言われた。
でも、どうしてもここだけは拘りたくて、お願いというか提案をして自分なりの表現に変えさせてもらった。

というのも、私は朝身体が動かず起きれない、涙が止まらない、ものが食べられない、文字が読めないという状態になって仕事を辞めた経験がある。
辞めたあとの私は、これまでの私とガラッと変わって強く明るく前向きになれたかと言えば全然そんなことはない。
どちらかと言えば弱いまんま、臆病なまんま、どこへ向かったらよいのかも分からないまんま、これまで居た場所からはじき出されて
完全に露頭に迷ってしまった感じである。
なんなら、そこに適合できなかった自分を沢山責めて更に弱ったりもした。
まー見事にポンコツだし意気地なしなのである。

でも、弾き出されて初めて外から見た過去(ショーウィンドウ)は内側から見ていたものとは全く別物になってしまった。
それがなんだったのかを外側から見た後は、もう前の自分には戻れない。
戻ろうとも、思えない。

今回のテーマである「未来は過去を変えられる」という一説は
平野敬一郎先生のマチネの終わりにという小説に出てくる言葉だが
同作の中で「花の姿を知らないまま眺めた蕾は、知ってからは、振り返った記憶の中で、もう同じ蕾じゃない」という一説がある。

私の中では、舞台上で彼女がショーウィンドウから倒れて出てしまい振り返った瞬間がまさにそれだった。

もう元には戻れない。
でも、外が安心な場所という訳でもなく不安も沢山抱えている。
それでも、マネキンのように指一本自由に動かなかった身体は動けるようになり
ただの箱のうちの一つに過ぎなかったショーウィンドウの外側には広大な世界があることを知って、
少なくともどこに行くかを自分で選択できるようにはなった。
だから、歩く。何があるかは分からないけど、歩く。

現在進行形で私は相変わらず弱い自分を受け入れながら、ショーウィンドウの外を彷徨っている。
気付くとまた何かしら過去に作り上げた固定観念のショーウィンドウに囚われてたりするけど、都度都度また外からそれを眺めるを繰り返している。
ふっと力を抜けば、そこからは出られるということを知ってしまったから。

でも、それに気付くためには間違いなく身体が動かなくなるほど追い詰められて絶対に諦めてはいけないと思っていた「理想の生き方」を諦めた過去があるからなのだ。
それが無ければ今も私は弱くてだらしがない自分を受け入れられないまま、自分に鞭を打ち続けていたしマネキンであることを強いていたと思う。

ここ3年くらい取り組んできた内観でいろんな価値観が変わってきた
今の自分だから出来た終わり方だったかなと思う。

こんな感じで、今回の一連のWSの中で自分の経験から一つの作品を作るという体験をしました。
長い!!(笑)
ひとまず、最後までお付き合い頂きありがとうございました。



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