二十歳を超えてもリストカットがやめられない

腕を切ることがやめられません。
初めて自分のことを傷付けたのは小学生の頃だったと思います。ストレスを抱えた時、脚や腕を定規や鉛筆で強く傷付けたり噛んだり、壁を殴ったり、そんなことをしていました。誰かに相談することや言語化することが苦手だったのかもしれません。

高校生になり、剃刀で腕を切るようになりました。初めて切った時の記憶はあまりありません。酷くショックな出来事があり、その場にあった剃刀で無意識のまま腕を切っていました。脂肪が見えるほどパックリと割れていて、今でもケロイドとなり残っています。

大学4年生になった今でも、強いストレスを受けると無意識のうちに切ってしまいます。切ろうと思って切るのではなく、もう、切っているのです。

可哀想と思ってほしいとか、血を見ると生きてることがわかるとか、そんな考えはありません。なるべく腕が傷だらけなことは知られたくありませんし公言もしたくないです。今こうして記事として書いているのはこんな自分から変わりたいからであって、好奇の目で見られたいわけではありません。血は好きでも嫌いでもありません。腕を切っている間は、虚としているか、涙が溜まっているので視界を認識していません。

腕を切らないと約束した人がいました。守れませんでした。腕を切らないと約束した人の裏切り行為で、私はさらに腕を切ってしまいました。所詮、私に自傷行為をするなと指示してくる人は、そんな自分に酔っているだけなのだと思います。第一、私の体なので、他人には関係ないことで、私の痛みは私にしかわからなくて他人には私の痛みはわからないのです。

腕を切ることで心の痛みは緩和されます。腕の痛みなんてすぐに消えますが、心の痛みはなかなか消えません。腕の傷はケロイドとして残りますが、すでに傷だらけの腕には何本か傷がまた増えたところでなんともないのです。今更無意味なのです。

こんな開き直った考えですが、自傷行為をやめたいです。情けないし、ダサいと思います。

私は可哀想と思われることが嫌いですし、心配されることもそこまで好きではありません。しかし、腕を見られた場合、情けの言葉をかけられることが多いです。

忘れられない言葉があります。
「腕の傷見ちゃった。なんかあったら相談してね」という言葉です。ふざけるなと思いました。哀れんだ視線を向け、同情されることが許せませんでした。相談するような仲でもないのに腹が立ちました。優しさって一体なんなのでしょうか?私はこれを優しさとして受け入れないと悪になるのでしょうか?

悲しいことがあり、やるせない気持ちになり、気づいたら暗闇の中、皮膚と刃が擦れる音が絶え間なく続いていました。

久しぶりに自傷行為をし、今までのゴチャゴチャがスッキリしたことも事実です。久しぶりに自傷行為をし、余計自責の念に駆られたことも事実です。この行為に救いがないとわかりながらも、癖になってしまいやめられません。

自ら部屋を明るくし、ティッシュとマスキングテープで血を抑える流れは、非常に惨めです。血をたくさん流すと、涙は止まり、至って冷静に処置をするのです。まぬけでしょう。

幸せな日々が続いていたはずなのに、再び自分を傷つけてしまいます。私を傷つけるものが悪いのだと開き直っている思考がわずかにあることも恐ろしいのです。

私はどうしたらいいのでしょうか。いつまで血を流せば気が済むのでしょう。

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